審きを通して(1975)

1975年6月29日 岩国教会週報
「先週説教より」ヨハネ9《前週週報欠落》

(岩国教会牧師11年度、健作さん41歳)

わたしがこの世に来たのは、さばくためである(ヨハネ9:39)

 ヨハネ9章では、盲人が見えるようになったことで、周りの人々の間に分断が起こってくる様子が記されている(9:16)。誰しも分裂や分争、仲違いを好む者はいないが、表面上、平和があり、統一があり、一致や和があると言われても、その「質」を改めて問うのが聖書である(マタイ10:34-36)。盲人が座って物乞いをしていることが当たり前という社会体制に安住していた「近所の人々」の間に分争が起き(9:8-12)、法で秩序を維持し、違反者は切り捨てようとするパリサイ人の権力を恐れる盲人の両親は子どもとのつながりを断ち切り(9:23)、遂に盲人は会堂から追放される(9:24)。人と人とのつながり方、集団、組織、党、教団、グループといった多様な共同体の内なる腐敗がさらけ出される過程において分争が起きている。私たちも、辛いことだが、人と人との亀裂や分争を経験する。分争を集団(または自分自身)の内面の問題にまで掘り下げ、審かれていく自分の部分に目をやらねばならない。分争は、イエスによって示された十字架の愛に至る道筋として、見えなかった部分を見させる審きの表れであると受け止めねばならない。分争において内なる審かれる部分を見つめること少なき共同体のあり方の中で、砕かれつつ歩むことに「教会の証」が記されていないだろうか。

(1975年6月22日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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