キリストの肢体(したい)(1974)

1974年10月27日 岩国教会週報
「先週説教より」コリント第一 6:12-20

(岩国教会牧師9年目、健作さん41歳)

 この聖書箇所(コリント第一 6:12-20)は、コリント教会の中の信仰の考え方をパウロが批判しているところです。パウロの論敵は、なかなか整った論理を持っています。12節の「すべての事が益になるわけではない」や13節の「しかし神はそれもこれも滅ぼすであろう」の2箇所の前には論敵の言葉が引用されています。つまり、何ものにも支配されない「人間の自由」の肯定です。そこから、「遊女と交わったからといって、自分がそれによって不自由になるわけではない」という理屈が生まれます。しかしパウロは、その自由の主張のうちに潜む自己弁護を見抜いています。そして「からだ」という言葉を8回も用いて、人間はぽつんと一人でいるものではなく、結びつきによって生かされていることを強調しています。そのことから自分を他とのつながりの中で(自己相対化して)生かすことを勧めます。その結びつきを見ていく土台に「代価を払って買いとられた」(6:20)という、自己中心の在り方ではない、神によってのみ創られた関係を据えます。論敵の人たちも、そのようなことを「キリストの肢体」という言葉で表現することを(15節の言葉から逆推すれば)理解としては知っていました。ただ、そのように生きていなかったのです。だからパウロは彼らに「不品行を避けよ」(6:18)と具体的な戒めを与え、戦術を教えます。私たちは、「キリストの肢体」という共同性を、たとえ自分一人で突っ走ることのできるような事柄においてさえも、「自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(6:20)という招きとして聞き取っていきたいと思います。

(1974年10月20日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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