命のパン《ヨハネ 6:27-40》(1979 礼拝説教要旨・週報)

1979.7.22、神戸教会
説教要旨は8月5日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん45歳)

ヨハネによる福音書 6:27-40、説教題「命のパン」

”わたしが命のパンである”(ヨハネ 6:35)


 パンは生活の糧、日常の味である。

 その人の生活はどんな味のパンを食べているかによって表現される。

 昔イスラエル民族はアッシリアに攻められ亡国の悲哀を味わった時、詩人は「私の涙は、昼も夜も私のパンであった」(詩篇 42:5)と歌った。


”人々がひねもすわたしに向かって「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は、わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。”(詩篇 42:5、口語訳)


 しかし、この民族は「平穏であって、一欠片の乾いたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」(箴言 17:1)というパンの味を残している。


”平穏であって、ひとかけらのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。”(箴言 17:1、口語訳)


 また、聖書ではパンは神学的・思想的な意味を担っている。

 預言者アモスは、自分の国の状況を「パンの飢饉ではなく、主の言葉を聞くことの飢饉」(アモス書 8:11)と言って為政者への批判的視座を据えている。


”主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。”(アモス書 8:11、口語訳)


 さらに申命記8章では、出エジプトの故事のマナ(荒野で民族が40年間養われた天からの食物)の意味を「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである」と述べている。


”それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。”(申命記 8:3、口語訳)


 さて、本日のテキスト・ヨハネ6章も、パンは神との関係を示す象徴として用いられている。

 パンは己が生を満たすものであるだけに己が手のうちに獲得されるべきものとして対象化されやすい。

 ヨハネ6章に出てくる群衆はその代表の如く描かれている。

 5000人の給食という福音書の奇跡物語が示そうとしたものは、奇跡(驚くべき出来事)をもって、対象化されるパンでは満たされない群衆へ、自分の命を与えることによって関わろうとされているイエスそのものが示されたことであった。

 でも群衆は「王にしよう」(ヨハネ6:15)という、自分の都合や考え方の中でしか、イエスを考えなかった。


”イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。”(ヨハネによる福音書 6:15、口語訳)


 与えられ、示された関係をそのまま受けるという、関係の中への入り込みをしない群衆。

 イエスを自分の解釈の中に取り込む群衆。

 お守り的安全さをパンに象徴させて「そのパンをいつも私たちにください」(ヨハネ 6:34)と求める群衆に、イエスは「私が命のパンである」(6:35)と切り返している。


”彼らやイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。”(ヨハネ 6:34-35、口語訳)


 こういう求め方をする群衆の片隅に、私たちも自分の姿を見出さないだろうか。

 パンはイエスとの関係なのだ、ということを己れの内に想い返し、決断し続けることが信仰ではないだろうか。

 そして「わたしに来る者を決して拒みはしない」(6:37)という言葉への信頼が、果てしない決断を支えるであろう。

”父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。”(ヨハネによる福音書 6:37、口語訳)

(1979年7月22日 主日礼拝説教要旨 岩井健作)

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