平和への志と働き《ヨハネ 6:41-51》(1979 平和聖日・礼拝説教要旨・週報)

1979.8.5、(平和聖日)礼拝、神戸教会
説教要旨は8月12日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

ヨハネ福音書 6:41-51、説教題「平和への志と働き」

”わたしは天から下ってきたパンである。それを食べる者はいつまでも生きるであろう”(ヨハネ 6:51、口語訳)

「天から下ってきた」という表現の中でヨハネ福音書の著者は、イエスの人格によってもたらされた衝撃性を語ろうとしている。

 ところが、あまりにも平板な日常性の中に埋もれている私たちは、聖書が証言しようとする事柄に驚きを失っている。

 イエスの存在と振る舞いは、人それぞれの解釈を超えて、私たちの心の底を揺さぶらないであろうか。


 著者は「ユダヤ人ら」という一群の人物を登場させる。

 この人間類型は、固定観念的であり、イデオロギー的であり、非決断的である。

 イエスに対して、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちは、その父母を知っているではないか。」としか言わない。

 一人の人間を理解する時、その人の経済的・地縁血縁的・思想的基盤の底を知ると安心するものであるが、「天から下ってきた」とは、その底が知れないということである。

「一体イエスとは誰なのか?」と不安にさせられる問いの前に立たされることが、信仰への足掛かりである。


 このイエスに対し、二つの反応が起こされている。

 一つは「ユダヤ人ら」の「つぶやき」。

 この語は、出エジプト記の16章にあるイスラエル人のつぶやきを思い起こさせる。

「荒野の困難」に直面した民族は、決断的にそれに対処せず、奴隷であった頃に覚えた「肉鍋の傍らに座す」ことを郷愁してつぶやく。

 つぶやきは決断を回避し、知らぬうちに自己を弁護する。

 これに対して、もう一つの態度を、ヨハネは「食べる」という極めて卑近な表現で示す。

 食べることは人間の基本的行動であり、生来習得された普遍的・意志的行動であり、反復性と個別性がある。

 イエスを受け止める信仰の告白的・応答的態度がこの語によって示されているのは意味深い。


 平和聖日にあたり、平和への関わりがこのような信仰の告白・応答の基本と深く関係があることを覚えたい。

 聖書では、平和は究極に於いて人の業より神の業である。

 現実の諸課題にぶつかると「つぶやく」か「食べる」かの分かれ道に立たされる。

 密かにつぶやき、身を避ければ避けられるのが、平和への志と働きである。

 しかし、「食べ」ざるを得ないところへと身を置くところに、キリスト者の「イエスとは誰か?」に応える実践的決断がある。

《祈り》

 平和への課題を避けて通らない者とさせて下さい。

(8月5日 平和聖日説教要旨)

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