わたしの神(1972)

1972年11月5日 岩国教会週報
「先週説教より」ピリピ1:1-11

(岩国教会牧師7年目、健作さん39歳)

 ピリピは、パウロによるヨーロッパ伝道最初の街で、また伝道のために彼が投獄された街でもある。この街に出来た教会とは親密な関係があった。この『獄中書簡』の冒頭「感謝と祈り」(ピリピ1:3−11)にもそれが表れている。この箇所を3つに分けると、3−6節は感謝の言葉、7・8節はパウロのピリピ人たちに対する心情、9−11節が祈り、となっている。

 さて、5節の『わたしの神』という言い方に注目したい。この表現は他に3箇所ある(ロマ1:8、Ⅱコリント12:21、ピリピ4:19)。彼に対する神の近さの表現であり、旧約詩篇などの語法に由来して祈りに関して用いられている。この言い方は、彼が神との関係を語ったものではなく、神体験(認識、知ること)を語っているものだと思う。この表現の背景には、彼の神を知ろうとする格闘が滲み出ている。神とは、第三者的には語れないものであり、イエスが十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫んで、彼を見捨てたと思われる方に手を伸ばし、耳を傾けていないと思われる方に向かって語り、存在していないように思われる方に期待をかけたような仕方でしか体験されないものだ。自明の神、抱き込まれた神は観念でしかない。神の死を論ずる論じ方(第二次大戦前後の神学)も、神について一切の判断を停止する思考も、いわば『わたしの神』への関わりと追求の鋭さではあるまいか。それぞれが辿る神体験の過程を自分なりに温めつつ大切にして生きてゆきたい。

(1972年10月29日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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