自分の行ったこと(1971)

1971年7月18日 岩国教会週報
「先週説教より」コリント第二 5:1-10

(岩国教会牧師6年目、健作さん37歳)

自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない(コリント第二 5:10)

 「行ったこと」は一回限りの出来事を示す過去形が用いられている。白い紙に筆で字を書くとき、一度墨をおいたら、やり直しが効かないように、それはそれなりに作品として残っていく。結果としての出来栄えだけが評価の全てであるなら、下手なものを初めから書く気を起こさないであろう。パウロの場合(ロマ3:21-)行いによって神の前に義とされるのではなく、ただ神の無償の恵みを受け入れること(信仰)によって神の前に義とされるという信仰義認論が「行い」の絶対視をゆるめている。だが、そのパウロでさえ、冒頭のように「行ったこと」の重さを訴えている。注意したいのは「行い」一般ではなく、「行ったこと」とある点である。それは、パウロにとって信仰義認は単に「神の義」の宣言に留まらず、人間に働きかけ内側から人を変革する聖化と共に捉えられていることによる。「神はその保証として御霊(みたま)をわたしたちに賜ったのである」(5節)と言って。行いの主体である人のうちに手付金(保証は本来その意)を与えて働きかけるところまで徹底した義の宣言として理解したことによる。

 神の恵みによって全ての人は救われている。この断言と確信は変わることはない。それゆえに「行ったこと」の事実だけが残る。作品の如く残る。このパウロの信仰は決定論や宿命論ではなく、自己の責任に立たせるところにその中心点がある。

 我々が日々「行ったこと」の中に、恵みとこれからの歩みへの責任をとってゆきたい。

(1971年7月11日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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