出会いの人(2000 神戸・出会い)

発表日時、掲載誌不明(神戸教会牧師時代)
中永(なかなが)公子さんの書籍出版に際して

 洋画家・小磯良平さんを囲んで、氏の「文化功労者」受賞記念に、神戸教会が愛餐(食事)会を持った。一人の青年が「小磯先生はどうして洗礼をうけられたのですか」と質問をした。

 借りてきた猫のようにおとなしく座っていた小磯さんが、すっくと立って「母の強い勧めによります」とだけ応えてまた黙って座った。印象に残る場面であった。その母とは養母・小磯英さんのことである。そこには「強い母」への拒否と受容の二重性が感じられた。

 神戸女学院の第一期生で、ピューリタンの女性宣教師の薫陶の結晶であるような世代である。哲学者・鶴見俊輔さんも同様な「母」を持っていた。鶴見さんはその母から逃れるためにアメリカ留学までして距離をとり「拒否」を表にして関わった。小磯さんは拒否を内に秘めつつ、徹底した「受容」で関わったと思われる。彼の女性像の画家としての美にはそれが滲んでいる。

 中永公子さんはその神戸女学院に学び、第一期生12人の研究をした。また後に「女性史」の講師としてそれを母校で後輩に伝えた。小磯さんが「母」に対して持つ「拒否と受容」はもう少し表現を変えれば「死と生」の二重性と言えるだろう。彼はそれを外なるものとして体験したのに対して、中永さんはその「死と生」の二重性を、自らの内なる身体性の「崩壊と構築」として体験しまた継承した。俳句を軸として「言葉を身体に叩き込み」つつ「様々な芸術分野とのコラボレイション」へと展開した。

 数々の仕事を積み重ねてきた原点には自らの内なる熾烈な「死と生の身体的二重性」がある。「死と生の二重性」は、聖書(キリスト教)の基底部分の「十字架と復活」という思考である。彼女は学生時代、バプテスト教会で洗礼を受けた。彼女なりの若き日の体験とかさなった出来事であったに違いない。

 後キリスト教女性史をテーマにしていた頃、宗教思想史家・笠原芳光さんと出会い誘われて、私が牧師として取り組んでいた『近代日本と神戸教会』の編集の仕事に入って下った。実務を一人で黙々として担い、歴史の細部へと分け入ってその仕事を完成にまで導いた。

(以下の画像、中央は『近代日本と神戸教会』編集委員長・武藤誠さん。関西学院大学名誉教授・神戸教会員)

 順序としてはそれに続く映像『基督in神戸』の仕事の頃には、神戸教会に籍を置く内なる人として「祈り」を私共は共にしてきた。その後現実の生活では、手術、震災体験、父の介護、母の死、人生の伴走者D氏の死の強烈な出来事を体験的に辿り、また3児の母としてその成長を見守り、さらには思わぬ多くの人々との邂逅によって生かされ「死と生」のテーマの振幅を広げて来られた。

 その結実がこの度の出版となった事を心から喜びたい。教会の言葉で言えば「不思議な導きで」という表現を使うのだが、その内実は「死と生」をまさに歴史をそのように生き切ったイエスとの「出会い」を誠実にたどる生きる姿であると思っている。

「出会いの人」中永公子さんに祝福あれ。

あとがき 『近代日本と神戸教会』(1992 書籍)

キリスト教史学会の講演をお引き受けして(2006 学会前)

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