銀よりもわたしの諭しを受け入れよ − 金権至上主義批判(2012 聖書の集い・箴言 ⑤)

2012.1.11、「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”

第27回「旧約聖書 箴言の言葉から」⑤
箴言 8:4-11

(健作さん 78歳、明治学院教会牧師)

1.「聖書の特質は、歴史的出来事を言語化したことだ」

 聖書学者・関根正雄氏が言った言葉です。

 氏はこのことを「言葉になった事実(factadica)」と呼んでいる。そしてその表現方法が二つの方法でなされているといいます。

 一つは類比(アナロギア)の論理。もう一つは逆説(パラドックス)の論理。

 アナロギアは広く人間の世界で働くので空間的な論理です。パラドックスは時間的な領域で働く切断の論理です。

 旧約聖書の預言者の「裁き」の言語は切断的であり、厳しい裁きを語ることで「救い」への道筋を語っている。そこにパラドックスがあります。また、ある特定の歴史や民族の状況があってパラドックスが成り立っています(ある中学生の新聞投書「厳しい指導が役に立った」は入試面接を突破出来た感想、危機感の上に成り立つ)。

 ところが、旧約聖書の知恵文学(箴言、コヘレトの言葉、ヨブ記、詩編の一部)の比喩の言語は普遍的であり空間的です。個人的、社会的に広く比喩が受け入れられる広がりがあります。例えば「銀にはるつぼ、金には炉。だが、心を試すのは主」(箴言17:3)。

 精練の技術はゆきわたっていたのでしょう。不純物を取り除く技術です。神が与える試練は、心から不純物を取り除いて、人間を磨きあげるというのです。これは類比の論理です。神が人を愛し、愛するがゆえに、鍛えるという「出来事」を言語化して表現したものです。パラドックスは、決断の論理ですが、類比は経験の論理です。この二つは、聖書を読む場合の大切な受け取り方の方法です。

2.「銀よりもわたしの諭しを受け入れ、精練された金よりも、知識を受け入れよ」(10節)

 銀や金が、この世で絶対化されて、金銀至上主義のごとく力を振るっている現実に対して、金銀の相対化を促す言葉です。

「よりも」というのは金銀そのものの否定ではありません。もっと大事な価値基準がありますよ、という促しです。「諭し」や「知識」の内容が、金銀の向こうを張って語られているのではありません。これが、パラドックスの論理の語り方で語られるとすれば「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)といって、決断を迫る語り方になります。「富」のむこうを張って「神」が厳然と登場します。富へ執着し、富を独占し、富を権力化している人には、むしろこういう語り方が挑戦的で有効です。

 新約聖書のルカ福音書12章の有名な「愚かな金持ち」の譬え話では「人の命は財産によってどうすることもできない」。豊作でこれから先何年も生きてゆく蓄えができた金持ちに「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と語られているお話が載っています。しかし、こういう語り方ではなくて、じわーっと悟らせる語りかけが、比喩を用いた語り方です。その意味では、箴言は、比喩の表現方法を巧みに用いた、真理の伝達を行っています。

3.3・11以後

 もっとも命を守る戦いの先端は何でしょうか。「金銀」よりもむしろ大切な「諭し」や「知識」は何でしょうか。これを明確にすることが大事です。

 先般、ある方からメールを戴き「『脱原発』を言っている人は、現実を考えていない、今、原発を止めたら、経済は成り立たず、今の水準の生活が破壊される。だから、原発はいけないという観念的な論点をやめて、もっと現実的なエネルギーのことを考えねばならない」という趣旨の議論を吹き掛けられて、いささかくたびれました。

「原発」や「基地」が聖書でいう「金銀」の問題だ、ということがなかなか分かってもらえません。

 企業のトップ・経済界の人・御用学者・企業からお金をたくさんもらっているマスメディアのいわば「巨人」を相手に「命」の問題を語るということは、凄い戦いです。でも、それを命懸けでやっている人たちが、フクシマ・原発の近くに、沖縄にいることが大きな励ましです。

 我々も聖書の言葉を現代的に生かしましょう。

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