見失って、見つける(2012 礼拝説教)

2012.1.8 降誕節(3) サムエル上2:22-45、ルカ2:41-52、明治学院教会(259)

明治学院教会牧師 78歳

1.新約聖書の4つの福音書で、イエスの幼少時代の記述を比べてみる。マルコ・ヨハネは全く興味を持っていない。マタイはヘロデの幼児虐殺と「聖家族」のエジプト逃避行・帰還についてのみ記す(マタイ 2:13-23)。ルカはイエスの成長の話を記す。それが「神殿で献げられる」(2:22-38)と「ナザレに帰る」(2:39-40)の話と今日のテキスト「神殿での少年イエス」の話である。2箇所出てくる「たくましく育ち」「知恵が増し」(40,52)は旧約のサムエル記上2:26が下敷きになっている。

 新約外典「トマスによるイエスの幼児物語」は幼児イエスの奇跡物語が記され「神童物語」や「聖者伝説」になっている。ルカのみが12歳の過越祭への参加の物語を記す。しかし、歴史記述というよりはルカの神学的構成と信仰教化の意味が隠されている。

2.① 41-45節。両親がイエスを見失ったこと。

 この福音書の24章「(女たちは)中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると」(3-4節)。この場面はイエスを探す両親に重なる。

 人はイエスを見失うことにおいてイエスに出会う。人間の直接性は、神に向かう時、断ち切られる、との暗示がある。神学的には「十字架の躓き無くして復活の命への繋がりはなし」ということか。

② 46-47節。「三日の後……見つけた」。エマオの途上の弟子は「このことが起こってから三日目なのです」(24:19-21)と語る。「三日目、三日後」はイエスの復活を証言する術語である。ここにはイエスの見つけ方への示唆がある。

③ 48-50節。両親の驚きは神殿の中にイエスを見つけたことだ。イエスはケロリとして「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」と言う。ヨセフとマリヤが両親であることは否定されていない。それでいて「父」とは何か。一元的に両親と別な「父」なる支配原理があるのではない。「肉」「血」「民族」の結束原理、支配原理の相対化が示唆されている。「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」(50節)。これはユーモアに近い。おそらく我々も同じくであろうから。

④ 51節。「ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」。「仕える」(ヒュポタッソー)。この語は新約聖書内の38例中、能動は「服従・従属・屈服させる」であり、受動は「従属させられる」という意味で、古代世界の社会構造を反映している語であって、あまり良い意味ではない。「中動態」で用いられると「従順である」の意味(この箇所の他、Ⅰコリント 15:28b、ヘブル12:9、ヤコブ 4:7、ローマ 8:7, 10:3、エフェソ 5:24a)。


(サイト記)中動態:非自発的同意を表す態。古代ギリシャ語は能動態・受動態・中動態の三つの態に分類される。


 マリヤが「すべて心に納めていた」とは、急いで結論を出してしまわないで、温めていたということか。ある観念・確信・固定的思想を持つのは易しい。だが思想しつつ、というプロセスを大事にしたい。

⑤ 52節。

 知性・体力そして「神と人とに愛される」とは、精神性、霊性、関係性の豊かさの表現であろう。

3.「失って、見つける」とは神学的、信仰的には「十字架と復活」の二重性、両義性、を表している。ルカの神学の一面であろう。だが少年イエスの話にこれを盛り込んだルカの文学性を大事にしたい。

 失い、探し、悩み、模索し、それでいて大工の子、少年イエスの日常を想像して、ユーモアのある生き方をしたい。

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