麦、福音の徴(2016 説教・都民教会・原稿バージョン)

2016.10.9、東京都民教会 礼拝説教 

▶️ 要旨バージョン

”種を蒔く” マルコによる福音書 4章1〜9節(聖書 おはこ ①)

(日本基督教団隠退教師、健作さん83歳)

 今日は、お招き戴き、このような機会を与えられたことを感謝いたします。 

 私は自分の信仰生活を顧みると、多くの方々によって育てらて来ました。それとは別に、 私には、私を育ててくれた忘れがたい植物があります。今日はその話をさせて戴きます。

 それは薩摩芋と麦です。

 私の父は戦後、岐阜県の農村の田舎で、開拓・自給・農村伝道を始めました。開拓教会の設立を願って招いた農民のかたの提供された畑を作って生活するので一家総出でお百姓をいたしました。私が中学から高校の時代です。春から夏の表作は薩摩芋でした。秋から冬は裏作で、麦でした。

 炎天下の薩摩芋の草取りは実に大変です。一畝(うね)取るのに何時間もかかるのです。それが当時1町歩(3800平米)となると、朝から夕方遅くまで働いても働いても容易ではありません。学校には農繁休暇というのがあって子供はみんなで手伝いますが、それでは間に合わない忙しさでした。いよいよ収穫となり、薩摩芋を澱粉工場まで荷車で運びます。すると農協から代金が払い込まれます。それが生活の資金です。その頃一貫目(3.75キロ)が15円でした。ところが草取りの日当は150円位で、薩摩芋の値の安さはひどいものでした。高校の社会科の教師にどうして農産物はこうも安いのかを尋ねると、農産物と工場の労賃を比べながら経済の仕組みを丁寧に教えてくれました。経済の二重構造といって、工業生産が景気不景気によって失業者を出した時、それを農業で吸収する仕組みになっているとのことです。その生産物の冴えたるものが「薩摩芋」でした。そこから始まって社会の仕組みを学び、農民運動のことや階級闘争の必然性にも目を開かれました。大学で一緒に学生運動や社会運動をした学生の仲間は当時のほとんどが共産党の学生でした。党に入ることも随分勧められました。しかし、無神論には付いてゆけず、キリスト教の社会運動・賀川豊彦の系譜を学び、自分でも教団のなかで「戦争責任告白」を中心とする平和運動・社会運動に身を置いてきました。この辺りのことは、前回少しお話ししたことがあると存じます。

 私は少年の頃から、今日選びました「種蒔きの譬え話」が大好きでした。自分の信仰の養いの原点になってきた様に思っています。マルコ4章1節以下です。このお話しは農業に関わるお話です。まずイエスが抽象的な宗教や神の話ではなく、当時の農民や漁民にこのような具体的な話で「神の国」を説いたことはほんとうに大事なことです。ここには暗に、神を知るのに「律法を守れ」という命令を厳く語り、律法を知らなければ神様のことは分からないといった当時の律法学者やパリサイ人への批判が込められています。

 2節に「イエスは<たとえ>で<いろいろ>教えられた」という言葉があります。これはなかなか意味の深い言葉です。

 ここには二つの大切な事が含まれています。

1.一つは「たとえ」という伝達方法が持っている豊かさです。

「たとえ」というのは、あることを説明するのに、相手がよく知っている事柄を持ち出して、その経験に訴えて、相手がまだよく知らないことを伝えようとする、伝達の方法です。言葉でできる説明を遥かに超えているイメージによる伝達です。

 電車のなかで何とはなしに聞いた、小学生の女の子の会話です。

「あなたのとこのお父さんはどんな人?」「うちのパパはね、パンダみたいなの」
 これで家庭での親子関係、ふんわかとしたお父さんの雰囲気が伝わってきます。

 イエスは「神の国」のことを、説明で教えたのでもなく、論理で教えたのでもなく、<たとえ>で教えた、という所に強調点があります。実は「神の国」という彼方の事柄(真理)を、この世の現実に伝える方法としてイエスはこれを最善とされた。

 イエスが教えた人々は、農民であり漁民であったと申しました。

 この事は、よく考えてみると、種蒔きの経験のある人には、イエスの語った「神の国」の事はイメージとして伝わったのです。しかし、種蒔きの経験のない人には「あなたがたにはイメージが浮かぶかな?」という批判が込められているという事にもなります。

 政治や宗教の中心であった都市・エルサレムにいた律法学者は、律法には精通していても、きっと種蒔きなどした事がなかったと思います。だから、ここにある<たとえ>からはイメージが伝わらなかったのでしよう。イメージを通して大切なことが伝わるというのはとても大事なことなのです。

2.二つ目は「いろいろと教えられた」という事です。

「いろいろと」というのは伝えられるイメージの豊かさをいっています。一つのことを幾通りもの譬えで語ったということです。ですから「神の国」の譬えは沢山あります。また同じ<たとえ>でも受け取るイメージは受け取り手で様々です。それでよいのです。

 先生が「草の葉っぱは何色でしょう」と子どもに聞きました。生徒の1人が即座に返事をしました。「紫!」。先生は困ってしまいました。ほんとうは「緑」を答えに予想していたのです。しかし、そう言われて見れば教室の下の花壇の欄の葉は紫でした。その子はその印象がとても強かったのです。「いろいろと」というのは、イエスは聞き手の経験している事の多様さを肯定しているのです。イエスは話を聞いていた人達の日常の経験のすべてを受け入れているという事です。言い換えれば、イエスに接する者は、その人生経験の全体が受け入れられているという事です。そのすべてが「神の国」とは何かの伝達の通路になっているのです。種蒔きの経験のある人は、その失敗をも含めて受け入れられているという事です。「いろいろと」は経験の個別性が受け入れられているという事です。 私たちは、自分の生活経験を大切にしたいと思います。

 どんな経験も、神の国の徴に成り得るのです。

 私は、青年期の中・高校生の頃、親父の農業を手伝わねばならない生活で、同級のサラリーマンの家庭がほんとうに羨ましかったのですが、その時の苦労は後々聖書の読み方、伝道や牧師の生活に本当に役立ちました。神が備えてくださったのだと思えるのは牧会に出てからでした。

 個別の経験と申しました。そこにはプラスもありマイナスもあります。そのすべてが<たとえ>になるのです。「神の国」といういわば「真理」の出来事が、それを写し出している私たちの現実の経験の中に相関関係を持って起こっているということです。

 彼方の真理・神の国の真理・神の命、と我々が経験することが、<たとえ>になっているという事は、ちょうど天秤の秤の様に、右と左が釣り合っているということです。

 <たとえ>は英語でパラブルといいますが、これはパラ(傍らに)ボレー(置く)というギリシャ語から来ています。彼方の真理の傍らに、此方の経験を置いたのが<たとえ>ということです。

 釣り合っていることをアナログといます。類比されているということです。私たちは「真理というもの」はこれだ、という具合にはっきり掴みたいと思います。デジタル(デジットは指し示すという意味)で把握しようとします。「神は愛である」ということを聞くと何か分かった様な気がしますが、それはデジタルな分かり方です。私たちに人を愛することができた時、何となく嬉しい気持ちがします。実はその経験のなかに神の愛、神の働きが宿っておりという様に感じるのは、アナログ的理解の仕方です。「いろいろと」というのは、そのように私たちの小さな歩みが支えられるということです。人生の、苦しい経験もきっと神の国を写し出す手立てであることを受け取ってゆきたいと思います。

 さて、このイエスの譬え話には、当時の農民の楽天性が描かれています。新約聖書学者の大貫隆さんによれば、パレスチナの麦作りには、二通りあるそうです。畝を作って蒔くというのが冬の方法だそうです。夏はバラ撒きだそうです。ここのお話は、夏撒きのお話です。種が道端に落ちたり、石だらけの土の少ない所に落ちたり、茨の中に落ちたり、あまり頓着しない所に、農民の行動の底の深さがあります。30倍、60倍、100倍というのは少し誇張があります。これは旧約聖書の創世記26章12節の「イサクがその土地に穀物の種を蒔くとその年のうちに百倍の収穫があった」という表現を受け継いで、神様が祝福されたということをいっているのです。実際は10倍あれば上出来で、7.5倍位だそうです。新約学者大貫隆さんは譬え話が示す所をこう言っています。

「貴重な種が無駄になることを気にしないこの農夫の気前よさ、損失の危険をおかす意志、最後に巨大な実りがあることを信じる楽天性、一言で言えば、非効率的行動である」「神は、人間の効率(効果がよく上がること)でものをお考えにならない」「非効率をも含めてお考えになる」ということです。

 そこが「神の国」の比喩になっていることを、この<たとえ>は語っています。でも、実りはちゃんとある。ここの所に、実を結ぶ種の不思議さがある、というのが、この農民の経験と釣り合っている神の国の真理です。この譬えは、どのように解釈されるかが問題なのではなくて、この譬えに出てくる麦そのものが、「福音の徴」なのです。

 私たちも、物事を神経質に効率で考えないで、大まかなところ「神の導き」を感じて「まあいいや」という肯定で、生きてゆくことが促されています。

 それぞれの人生を考えると、実らなかった種になぞらえられる出来事はたくさんあるでしょう。私なども、思い出すと心が疼く失敗、痛み、損失、知らないうちに身近な者に負わせている重荷、拭い得ない傷、などもあるでしょう。

 聖書で「罪の値」とか「死の陰」と表現されているようなことは誰にでもあります。不条理な出来事、負いきれないこと、常に忘れることなく抱えている悲しい事柄もあります。しかし、それはそれとして、そっと抱え込んだままにしておきましょう。実を結ばなかった種です。

 しかし、お話はそれで終りではないのです。「種が実を結ぶ」というのがこの「種蒔きの譬え」です。これを信じて良いのです。神が私たちを生まれさせ生かしてくださっていることは皆「良い地」です。この譬え話は大きな励ましです。それぞれの人生が「実を結ぶ」というのは動かしがたい事実を与えられています。それは、どんなに身の周りの出来事が暗いときでも「実り」は約束されています。希望を抱いて歩もうという促しです。それは、この種蒔きの<たとえ>と共に私たちは生かされているのです。

 教会のことを考えても、歴史の中を歩む教会は「石地」や「茨の中」になぞらえられる局面はあります。それぞれに厳しいことつらいことを背負わねばならない事もあります。しかし、私は6つの教会で牧会58年を歩んで来ました。教会は一つ一つの枝を含めて成長し、育ち、実を結ぶ「実り」を受ける所が教会であることをしみじみ味わっています。東京都民教会は今牧師がおられませんが、その時期をどうか教会の会員の皆様がお互いに励まし合って、「福音の種」の成長を信じて宣教に牧会に励まれることを切に祈っています。

 祈ります。

 私たちの父なる神様。今日は東京都民教会のみなさんと聖書の言葉を学ぶことができて感謝いたします。この教会の希望を大きく育んでくださいますようにお願いいたします。教会の枝につながる1人1人の兄弟姉妹をお守りください。世界を覆う暗闇がますます深い時代です。この教会を世の光と為さしめ、福音の種が実を結ぶ拠点とならしめて下さい。主イエスの名によって祈ります。

アーメン

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▶️ ”種を蒔く” マルコによる福音書 4章1〜9節(聖書 おはこ ①)

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