フィリピ 1:3-11 ”フィリピの信徒のための祈り”
2015.8.30、 明治学院教会(信徒講壇 ⑰)聖霊降臨節 ⑮
(日本基督教団教師、単立明治学院教会信徒・前牧師、岩井健作 82歳)
あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。(フィリピの信徒への手紙 1:4)
1.フィリピの教会は使徒パウロにとって麗しい関係にあった教会だと言われています。パウロが伝道の困苦の生活にあったとき、物心両面で援助をした教会です(フィリピ4:15-16)。
パウロはこの書簡を記した時、牢獄に捕らえられていました(1:13)。ですからこの書簡は”獄中書簡”と呼ばれています。
2.信仰の逆説
パウロが獄中だということで、フィリピの人たちはパウロのことを心配していました。当然の人情でしょう。
指導者の不在が不安を招きました。しかし、パウロは「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(1:12)と激励します。
彼らは「投獄は福音の前進」」という信仰の逆説の理解には至りませんでした。
「病による母親の不在が子供達をしっかりさせる」という理解のようなものです。
しかし、そこまでの感覚のないことをパウロは憂います。
3.「信仰の逆説」は豊かか?
パウロにとっては「あなたがたを覚える」ということは、実は、ただ「配慮する」ということ以上の事でした。
このことは「そこにまで導けていない」パウロ自身の牧会の限界と力不足の自覚とが表裏になっています。
ある意味では自分の不甲斐なさの自覚です。喜ばしいことではないのです。
私なども、一つの教会を長く牧会してきて、その教会がたとえ表面上は問題なく成長しているようでも、各個人の「信仰の逆説」が豊かでないことを思うと、自分の無力さをつくづく思います。
4.パウロはコリント教会ならいざ知らず、フィリピの教会の逆説を宿さない、直裁な無垢な信仰のあり方を今ひとつ距離を置いて見ています。
しかし、フィリピの人たちに対して、神は必ずあなたがたの中で救いの業を成し遂げてくださるに違いないという確信を持っています(1:6)。
フィリピの信徒への手紙 1:6
あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
5.だから祈るのです。「わたしは、こう祈ります。……本当に重要なことを見分けられるように」と。
祈りは感謝、執り成し、祈願、そして懺悔です。
パウロは「喜びをもって祈る(1:4)」と言っていますから、フィリピの教会そのものの存在への感謝があるでしょう。しかし、それ以上にこの世的にはマイナスの出来事が「福音の前進」であるという逆説を宿した教会に成長することへの「執り成し」の祈りがあったと思います。
パウロが伝道者として自ら味わっていた「信仰の逆説」がそんなにすぐ分かるとは思っていなかったでしょう。そういう意味では、パウロは麗しい教会との交わりにおいてもなお孤独です。しかし、彼らのために祈るということが、自身にとってその孤独を破る喜びなのです。
だから「喜びをもって」祈るのです。
6.「逆説」というものは、言葉や説明で伝わるものではありません。
また自分自身の努力でも理解できるものではありません。
霊の導きを受けて、経験と生活の中で納得するものです。
例えば「弱い時こそ強い」「負けるが勝ち」「苦難をも喜ぶ」「貧しい人たちは幸いである」。
自分自身に対してさえも、まして相手がそのような信仰の境地に至るようにとは、祈る以外に方法はありません。
「逆説の彼方」の祈りです。祈りが希望なのです。

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