ひとりから ー 今、平和を求め生きる者に必要な事(2015 教会修養会)

2015.8.10、明治学院教会修養会 主題とその展開(案)

(日本基督教団教師、前明治学院教会牧師 健作さん82歳)

(サイト記)健作さんは2014年3月に明治学院教会牧師を80歳で退任。明治学院教会信徒として高崎に転居する2016年3月まで月1回の信徒講壇を続け、2015年の教会修養会では講師を務めた。

聖書テキスト ルカ福音書 15章1−7節

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。…」(ルカ 15:4)

聖書から「九十九匹と一匹 苦悩する者と同行するイエス」について深く学ぶ。    参照 岩井説教「聴き手のために」(2015年7月26日)、『本のひろば』7月号:荒井献氏書評。

1.今、日本の国は危機です。なぜって。安倍内閣や与党が「戦争のできる国」を目指して、集団的自衛権行使を決め、その実現に向けて「安保」関連法案を国会(衆議院強行採決)で決めようとしているからです。

「国民」の世論は「安保法案」反対が多くを占めています。あらゆる層の人々がいろいろな形で「安保法案(戦争法案)」に反対の意思表示をしています。高校生のグループまでもが反対のデモを始めました。子供をもつ母親も立ち上がっています。この人達は、誰かにいわれたのではありません。ひとりひとりが危機を感じ取っているからです。徒党を組んでとか、誰かとつるんで、上からの権威に服従して、という事ではなくて、人間が独りになって、考え、行動し、また生きるという事はとても大事な事です。

2.明治期以来キリスト教が何故日本では広がるのが難しかったかというと、それは「天皇制」という精神的・政治的基盤があるからだというのは定説です。何故ならキリスト教は「家の宗教」(個は家に従う)にはならず、一人一人個人の信仰が基盤だからです。

 けれども、キリスト教も日本化して、ほんとうに「独りになる」とはどういう事かが薄れてきています。確かに、十字架のイエスは独りで苦しみ、「我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)という想像を絶する孤独を負われ死なれました。その事はキリスト者は教義としては分かっているのです。そのイエスの死を贖罪の死として信じることにより救いを信じています。

3.しかし「十字架を負ってわたしに従ってきなさい」(マルコ8:34)という言葉に照らして私たちが自分を顧みるとき、ほんとうに「独りになる勇気」を持って生きているかというと、そうでないことに気がつかされます。独りになれないために「周りの人にあたり散らしたり」「怒りやいらだちをぶつけている」ことはありませんか。独りになれない人は、二人にもなれないのです(連帯ができない)。信仰が観念化しているのです。自戒してもしきれないことです。独りになる事ができるとしたら、それは「イエスを死者の中から復活させた方の霊があなたがたの内に宿っている」(ロマ8:11)とパウロが表現しているように、わたしたちの努力や力の彼方から働きかける力によると「告白」せざるを得ません。

4. ここまでくると人間は、自分であまり体面を繕ったり、格好を付けたりすることから自由にされて、醜さや、失敗もさらけ出しつつ、生かされるままに生きてよいのではないでしょうか。今の時代ほど、独りになる勇気が求められている時代はありません。悩みが多くとも、苦しみが多くとも、弱さをさらけ出しつつも、「神が知り給う」こと(イエス・キリストの十字架の孤独ゆえに)を信じて生きるのが、キリスト者です。「独りになる」ことの徹底が、今の時代での証しなのです。この証しを土台として「伝道」があるのです。

5.この修養会で、独りになれない自分を見つめて語り合いましょう。もし、自分に内面というものがあれば、それを語り合いましょう。独りになれたときの喜びを語り合いましょう。キリスト者は「独りであり」また「イエスが同行してくださるゆえに独りではない」という二重性を生きています。そこには、孤独と連帯が同居しています。「十字架と復活」との同居です。

今の時代を生きるということ – 目を覚ましていなさい(2014 教会修養会)