”見失った一匹”が問いかけるもの(2015 信徒講壇 ⑯ マタイ・ルカ)

マタイ18:10-14 「迷い出た羊」のたとえ
ルカ15:3-7 「見失った羊」のたとえ

2015.7.26、 明治学院教会(信徒講壇 ⑯)

(日本基督教団教師、単立明治学院教会信徒・前牧師、岩井健作 81歳)

あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。(マタイ 18:12)

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(ルカ 15:4)

1.「羊飼い」は聖書によく出てくる話である。

 羊を飼う文化で生活していない我々は、想像して理解する他はない。

 または我々の経験に置き換えて納得するのが精一杯である。だから、聖書のテキストに向かっては常に「謙虚」でありたい。断定的な思い込みや型にはまった通俗的理解で「わかった」つもりになってはなるまい。

「九十九匹と一匹の羊」の話にしても、多くの人が先入観による自分流あるいは「教会流」の解釈を抱いているような気がする。讃美歌21-200番(小さいひつじが)などもその一つであろう。

2.このイエスの譬えには、マタイ版とルカ版がある。

 この箇所の詳しい研究を表した荒井献氏(新約聖書学者)によれば、イエスの語った譬えの原型はルカの15章4節だと言う。

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(ルカ 15:4)

 マタイは「一匹」を「迷い出た」とマイナス評価をし、九十九匹を「山(エルサレムを暗示する安全な聖域)」に残し(保護し)、一匹を多数の主流派の共同体に連れ戻すと言う思想である。

 当時の文脈で言えば、信仰の薄い「迷い出た」信徒を、九十九匹の迷わない教会という聖域に保護されている強い教会員のところに連れ戻すのが、牧会に専念する「羊飼い・司牧者」の任務だという主張である。

3.”いなくなった羊のもとに歩いてゆく

 ルカ版も「一匹」は悔い改める必要のある「罪人」とマイナスの理解をするが、イエスの話の原型は九十九匹について「荒れ野に放置」しても「いなくなった羊のもとに歩いてゆく」(共に荒井訳)羊飼いがイメージされている。

 羊飼いは羊を九十九匹という多数派の共同体に連れ戻すことを任務とはしていない。

 九十九匹を荒野の危険(野獣が横行する)に晒しても、なお一匹に同行する羊飼いが示唆されている。

 ルカの場合は1節から3節までの状況設定を考えると「九十九匹」とはイエスが「罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」ことを非難した「ファリサイ派の人々や律法学者たち」のことである。

 彼らを「悔い改めの必要のない正しい人」と言っていることになるが、これは皮肉を込めた批判的言辞だと荒井は指摘する。

 ファリサイ派など(九十九匹が暗示する集団)が危険と不安にさらされるように仕向けていることは、失われた羊を訪ねる羊飼いが行動で示している社会批判なのである。

4.”不登校という希望”

 最近、大崎博澄さんという方の「不登校という希望」という運動の記録・論考を読んだ(「ひとりから」57号所収)。

 不登校の子どもを学校に連れ戻すのではなく、彼・彼女が何を訴えているかを探ることに希望があるという。

 不登校のことは本当に研究も進んでいないそうだ。

 これを読んでいて、失われた羊に同行する羊飼いを思い出した。それは、イエスの歩みと重なる。聖書の他の表現を借りれば、地上を十字架に向かって旅する「神の子羊」の姿である。福音の恵みが示されている。

5.新生会(社会福祉法人)

 ご存知のように、私ども夫婦は、不思議な導きで、7月7日、高崎市の社会福祉法人 新生会(聖公会)の老人ホームに移った。

 理事長・原慶子さんの理念は、国の市場原理主義に流された福祉政策に強い抗議をしながら、足元では実に丁寧に暖かく老人個々人をケアーする方針。

 実際に生活を始めてみて、聞きしに勝る素晴らしさである。

 失われた一匹の羊に同行する羊飼い、を想像させ、同時にイエスの振る舞いを深く考えさせられた。

meigaku_iwai_20150726

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