ルカ 6:39-45、ローマ 8:26
2015.4.26、 明治学院教会(信徒講壇 ⑭)復活節 ④ 労働聖日
(日本基督教団教師、前明治学院教会牧師 -2014.3、岩井健作 81歳)
”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる(ローマの信徒への手紙 8:26)
1.谷川俊太郎の詩の一節です。
「……あんたは、わたしのまえにいるけれど
なんだか テレビでみているみたい
けしちゃいたいけれど
すいっちがない」
(『はだか − 谷川俊太郎詩集』筑摩書房 1988)
主体のかかっていない饒舌な言葉の語り手への痛烈な反撃です。
言葉は伝達やコミュニケーションに便利なものですが、相手の心に届かない言葉や、主体のかかっていない言葉は、なるほどと社会通念や常識として整っていても、わざわざ言うことはないのです。
むしろ黙っていてほしいものです。
2.「盲人は盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」(ルカ 6:39)
指導者がダメだと、とんだことになる、という古い諺だと言われています。ルカ福音書ではイエスの「平野の説教」(”山から下りて、平らな所にお立ちになった(ルカ 6:17)”)の終わりの部分にあたります。並行記事がマタイ15:14(”盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう”)で使われています。
ここに収録されるまでには、イエスの言葉群をまとめた「語録集(Q)」の教団の考え(神学)がベースにある、と研究者は言っています。
全体の文脈からは、やはり当時の教団の指導者層への不誠実、言行不一致への批判として用いられています。
けれども、盲人に対するイエスの他の言葉(ヨハネ9:3、マルコ8:22、10:46)から、イエスが盲人を悪い例にたとえた、とは考えられません。
盲人は盲人として認めて生きること、「神の業がこの人に現れるためである(ヨハネ 9:3)」というのがイエスの主張です。この「肯定」に生かされた方はたくさんいます。
もし、イエスが言ったとすれば「盲人が社会的差別のゆえに盲人同士もたれあって穴に落ちる悲惨があってよいのか」と言う社会批判として、また盲人の自立への促しを暗に諺の裏に含ませて語られた逆説的言葉として受け取られます。
この諺を用いてイエスが語られたならば、盲人差別の再生産につながるような語り方はしなかったでしょう。
ルカの教団の指導者がダメなのであれば、書き手が「あなたたちはダメだ」と面と向かって言うのが「主体的発言」です。
「木と実の関係」の例話からすれば、ルカの教会も言行不一致に悩んでいたかもしれません。これは、現代を含めて、歴史の中を歩む教会が負い続けてきた課題でもあります。
3.イエスの言葉は、イエスの十字架の死に極まる生涯と重ね合わせる時、それは一般的格言・教訓であることを破って、相手の主体を奥底から揺さぶる言葉となります。
例えば、前回述べた「もうこれでいい”アペケイ”(マルコ14:41)」においても、弟子の無理解、弱さを承知で「受容し、赦す」イエスの「十字架の主体」があっての言葉でありました。
言葉は語り手の主体自身が言葉の内容を引き受けている出来事において生きた言葉となります。
パウロは「福音」を「十字架の言葉(第一コリント 1:18)」と表現しました。
一体そんなことは可能なのか、と言う恐れがあります。
4.そこに登場するのが、ローマ8:26の「”霊”の執り成し」です。
これは「祈り」についての箇所ですが、広くは「言葉への執り成し」です。
我々の言葉はまさに”霊”が意味する「神との関係」に繋がり、開かれている時、言葉の主体たりうるのでしょう。
「原発を再稼働するな」「言論の自由に圧力をかけるな」「戦争の準備態勢をするな」「辺野古の基地建設を中断せよ」「格差を広げるな」「保育を守れ」「北村牧師の免職を撤回せよ」等、主体のかかったキリスト者でありたいと思います。
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