フィリピの信徒への手紙 2:1-11
2015.3.1、 明治学院教会(信徒講壇 ⑫)受難節 ②
(日本基督教団教師、前明治学院教会牧師 -2014.3、岩井健作 81歳)
1.「句読点」は、文章を書く時に付ける”、”や”。”のことです。
「句読点」の付け方で、文章は生きもし死にもします。これを比喩的に用いて、あるいはそこに隠喩(メタファー)的意味を含ませて用いている、ある事柄の出来事に出会ったことが今も大変心に残っています。
一人の後輩が、私の知人が上司になる教育関係の職場に就業しました。しばらくして「彼はどうですか?」と声をかけたら、ちょっと渋い表情で「彼は句読点が打てない人でしてねえ」とこぼされました。
ちょっと理解しかねたのですが、どうも「生き方にけじめがない」という意味以上に、一緒に仕事をしていて、常に「第三者的」で、関係存在として一緒に生きている者への気遣いだとか、思いやりというか、それがちぐはぐで、責任の取り方が本当には出来ないという意味だとわかりました。
人は良い人なのだけれど、チームの仕事では仲間の重荷になっているらしいのです。そのことを彼自身が感じていないことが、閉塞感を醸し出しているのです。
それ以来、「人生の句読点」とは自分だけのことを始末するだけではなくて、「共に生きる出会いの共同性の中での生き方」を含めていると感じています。
「関係」というものは、いつも「自分中心」「自分本位」が死んで、相手によって自分が相対化される所に、新しく神によって与えられる創造的な業なのです。
このことから、読み慣れたフィリピの聖書の言葉を想像しました。
2.さて、今日の聖書箇所は、フィリピの手紙の中でも有名な「パウロのキリスト論」です。
これは初代の教会で、教会の仲間がお互いに謙遜の心を持って、交わりをするように、という勧めを説いた一説に出てきます。
キリストを模範にしなさいと諭したところです。
そして「キリストのへりくだり」が述べられます。
それは「死に至るまで」の徹底したものでした。しかし、初代の教会ではそれがすでに観念化・固定化・形骸化したので、それを破る意味で「十字架の死に至るまで」と付け加えたのがパウロだったという指摘(青野太潮)は新鮮な解釈です。
言葉は常に固定化・観念化します。
どう言い換えるかではなく、そこで「ピリオド(終止符)」を打って、その沈黙に耐える時、次の出来事が始まります。
9節の「このため」は、その句読点の先の出来事を語ります。
「神によるキリストの高挙」です。
「死による断絶を前提とした上で」全く新たな「あらゆる名にまさる名」が与えられます。
ここには主語の転換が見られます。
十字架の死に至る道の主語は「キリスト」ですが、「高挙」の主語は「神」です。
「句読点」が事柄を分けています。これは「神の句読点」です。
3.もう23年前にいただいた一冊の絵本のことを今思い出します。
『かみさまのおてつだい − ぼくびょうきでいいんだね』(佐原良子 同朋舎出版 1993)
契児くんは生まれつき心臓が悪くて、三回の手術の後、五歳でとうとう天に召されました。
その子が、病気に「句読点」を打って、病院で他の病気の子を励まし、いたわり、神様のお手伝いをする生き方に変わっていった、というお話です。
亡くなった後、心臓病の親の会ができて、活動を始めたという感動的物語です。
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