み言葉は、わが足の灯(2015 信徒講壇 ⑪・詩編119)

詩編 119:105-112

2015.2.15、 明治学院教会(信徒講壇 ⑪)降誕節 ⑧
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(日本基督教団教師、前明治学院教会牧師 -2014.3、岩井健作 81歳)

(詩編 119:105-102、新共同訳)

 あなたの御言葉は、わたしの道の光
 わたしの歩みを照らす灯。
 わたしは誓ったことを果たします。
 あなたの正しい裁きを守ります。
 わたしは甚だしく卑しめられています。
 主よ、御言葉の通り 命を得させてください。
 わたしの口が進んでささげる祈りを 主よ、どうか受け入れ
 あなたの裁きを教えてください。
 わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。
 それでも、あなたの律法を決して忘れません。
 主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。
 それでも、わたしはあなたの命令からそれません。
 あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。
 それはわたしの心の喜びです。
 あなたの掟を行うことに心を傾け
 わたしはとこしえに従って行きます。

1.詩編119編は詩編の中で最も長い詩、「いろは歌」です。

 ヘブル語のアルファベットを頭文字にした8行の詩が22連、続いています。

「律法」(本文では”あかし・み言葉・法・定め・命令・戒め・ことば・律法”の8つの言葉で表示)の大切さを指摘します。この詩の「生活の座」(背景)は、歴史的にはイスラエル民族がバビロニア捕囚の後期に、富める者は外国の支配者に馴染み、異教化された中で、ただ主の掟を単純化して信じた底辺層の詩人の詩だと言われています(関根正雄氏)。

 彼らが、足の灯として「律法の精神」を信じて迷わなかった実践的教訓詩です。

 現代日本に例をとれば、米国の新自由主義の富中心に媚びて戦争も肯定する風潮の中で、お金ではなく「命と暮らしを守れ」と単純に叫んでいる庶民の感覚のようなものです。

 個々の契約(守るべき法)ではなく、律法の精神を非常に単純化して大事にします。

2.今日の箇所の冒頭「み言葉」は「ダーバール(言葉)」というヘブル語です。

「後ろから前へ押し出す」という意味で、言葉の力が強調されます。母親の言葉が子供の背後から力になるようなものです。

 哲学者の鶴見俊輔さんが戦後鬱で何もできなかった時、隣の部屋で遊んでいた子供の「いろはがるた」を聴いて、自分でも「いろはがるた」を作ったのが、戦後の彼の哲学の営みのきっかけだったそうです(「カルタ」、『日常的思考の可能性』鶴見俊輔、筑摩書房 1967)。

「カルタ」には不思議な力があります。彼は自分の「カルタ」を作ることを勧めています。言葉の力が発揮されます。

3.私は、神学校を出て、牧師になってからは毎週説教をした訳ですが、「先生の話は難しい(観念的)」と言われて大変悩みました。

 先輩の牧師に相談しました。

 彼は寄席やお芝居に通って、笑いと涙の感動に共感することが生活になっている人です。ダジャレのうまい人で、説教の中でみんなを一回は笑わす、という特技を持った牧師です。

「君には無理だろうな」と言って「諺(ことわざ)を使ってみたらどうだろうか?」というアドバイスをしてくれました。

 それは神学の体系的言説を、経験的・生活的な知恵に翻訳をするということでした。

 例えば「あなたの隣り人を愛せよ」なら「向こう三軒両隣」を使って表現するという具合です。

 認識情報(神学)を行動情報(信仰の証詞)に置き換えると言っても良いと思います。

「雨だから気をつけなさいね」と、人生最後に母が息子(老練な医師)に語ったのを聴いて感動したことがあります。

 また、介護を「かけがえのない時」とした事を証しする一通の手紙のことを思い出します。

 冒頭の「道の光」とは、人生の希望という意味でしょう。

 あなたの御言葉は、わたしの道の光
 わたしの歩みを照らす灯。
 (詩編 119:105)

 しかし、それは道全体を浮かび上がらせるような光ではないのです。「歩みを照らす灯火」なのです。

 僕らの子ども時代は提灯(ちょうちん)でした。今は懐中電灯です。それもLEDです。

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ福音書 1:14、新共同訳)

 とはイエスその人を示した新約のヨハネの言葉です。

 それは「足の灯火」である導き手なのです。

「肉」は抽象概念ではなくて、目に見える、日々を生かす道しるべなのです。

 祈ります。

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