エレミヤのとりなし

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第85回「旧約聖書 エレミヤ書を読む」⑤
エレミヤ書 14章17節-22節

主よ、我々は自分たちの背きと、先祖の罪を知っています。あなたに対して、我々は過ちを犯しました。

エレミヤ書 14章20節


1、太平洋戦争中、日本が侵略戦争に突っ走っている中で、矢内原忠雄(1898-1961) は、「日本は死ななければ駄目だ」という発言をした。そこには、深い嘆き、叱責、そして執り成しが滲んでいる。彼はキリスト者の社会科学者として、侵略戦争をする日本を批判し、非戦平和を貫いた。個人誌『嘉信』がその主張の場であったが、弾圧により発禁処分にされた。戦後は東京大学総長として教育界に貢献し、こよなく祈りをもって日本の為に尽くした。その生涯は預言者的であった。

2、エレミヤの預言者としての使命は、神の裁きが、間近に迫っていることを、周囲の人々に繰り返し語ることであった。彼は、周囲の人々から敵視され、命を狙われる立場に置かれた。苦難と孤独感がこの書物には満ちている。しかし、神から委託された言葉を「預って」生きた。神と民との人格的関係を充分に体得しつつ、民の神への背信を心底批判し、神の裁きを語った。しかし、そこを執り成し、民を自らと一体化しつつ、同時に他者化しつつ、生きた預言者である。

3、神のイスラエル(民族)との関係は2章1節では「わたしは、あなたの若いころの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」と結婚の関係で語られている。民はそれを裏切って、他の神々に心を傾けていった。エレミヤが取り上げた問題は、エリヤ(エレミヤより二百数十年前に活動した預言者)が取り上げた問題であり、カナンの神々への礼拝の問題であった。原点に帰るようにと、エレミヤは同じような苦労をする。

4、エレミヤの時代の民の姿が、今日読んだ、18節にはよく記されている。民の窮状である。

野に出てみれば、見よ、剣に刺された者。町に入ってみれば、見よ、飢えに苦しむ者。預言者も祭司も見知らぬ地にさまよって行く。

エレミヤ書 14章18節

町の外には戦闘で殺された者の死骸が、町の中には敵の包囲による激しい飢えがある。民の精神的指導者たち(預言者や祭司)は判断力を喪失してしまっている。このような絶望的情況が契機となって、エレミヤは祈りにおいて、執り成すことで、この嘆きの共同体を自らと一体化させる。これが19節から22節の言葉である。

5、19節。神はユダの民を見捨てられたのかとの問いには、その基礎に神の愛についての認識と憧憬がある。
20節。罪の告白も契約思想の線上にある。神を審判者として捉える救済史の一面がよく出ている。神の審判のもとにひれ伏し、恵みを請う願いが述べられている。
21節。神の契約を祭儀によって繋ぎ止める願いが記されている。
22節。異教の神々を退けるという伝統的な形式に則りつつ、また創造思想を讃歌風に用いながらヤハウェの独ーなる権威と支配を告白する讃美となっている。

6、今、日本で権力を握っている者達、それを支えてよしとする人々の価値観は「お金」である。それに対抗している価値観は「命」である,いささか単純化、図式化の誹りは免れないとしても、究めて重要な視点であろう。命を守る叫びを続けている、現代の預言者的存在に目を留め、彼らの心の嘆き、苦悩、そして「祈り」に似た内面的在り方を大事にしてゆきたい。


エレミヤ書 14章17-22節
17 あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。
「わたしの目は夜も昼も涙を流し
 とどまることがない。
 娘なるわが民は破滅し
 その傷はあまりにも重い。
18 野に出て見れば、見よ、剣に刺された者。
 町に入ってみれば、見よ、飢えに苦しむ者。
 預言者も祭司も見知らぬ地にさまよって行く。」
19 あなたはユダを退けられたのか。
 シオンをいとわれるのか。
 なぜ、我々を打ち、いやしては下さらないのか。
 平和を望んでも、幸いはなく
 いやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ。
20 主よ、我々は自分たちの背きと
 先祖の罪を知っています。
 あなたに対して、我々は過ちを犯しました。
21 我々を見捨てないでください。
 あなたの栄光の座を軽んじないでください。
 御名にふさわしく、我々と結んだ契約を心に留め
 それを破らないでください。
22 国々の空しい神々の中に
 雨を降らしうるものがあるでしょうか。
 天が雨を与えるでしょうか。
 我々の神、主よ。
 それをなしうるのはあなただけではありませんか。
 我々はあなたを待ち望みます。
 あなたこそ、すべてを成し遂げる方です。