エレミヤ、自分への暗殺の計画を知る(2014 エレミヤ ④)

2014.10.29、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第84回、「旧約聖書 エレミヤ書を読む」④

(前明治学院教会牧師、牧師退任から半年、81歳)

エレミヤ書 11章18節−23節

1.旧約聖書、特に「預言書」は、イスラエル民族の「神(主、ヤハウェ)」への背きの歴史とそれに抗する者達(預言者など)の命を賭けた戦いの歴史を描いた書物といっても過言ではないと思います。

 エレミヤ書が描かれた時代は特にそれが顕著です。ユダ国内では、アッシリアの支配下でユダ王マナセ(B.C.687-642:ヨシヤの二代前の王)が導入した異教的宗教祭儀と施設を守る民族主義が一方で盛んになり「ヨシヤの宗教改革」に反対をします。しかし、ヨシヤの宗教改革はイスラエルのヤハウェの宗教への徹底的回帰を行うものでした。ヨシヤ治世のB.C.622、王が神殿修理を命じ、工事が行われている時、大祭司ヒルキアは王の書記官シャファンに、神殿で「律法の書」が発見されたと告げます(列王下22:8)。これは現在の「申命記」の主要部分です(申12-28章)。これがヨシヤ王に徹底した宗教改革、つまり粛正を行わしめます。

 申命記13章7節−12節などは、同調者は兄弟でも疑えという、現代の我々がまともには読めない厳しさです。実際には、当時特権を持っていた異教宗教の祭司には死活問題です。ヨシヤ王の宗教改革を支持したエレミヤは命を狙われます。ここまでは、前回に学んだところです。

2.今回のテキストは、故郷アナトテの人々がエレミヤの命を狙っていることを知ったエレミヤが、その復讐を神に求めているところです。

万軍の主よ
人のはらわたと心を究め
正義をもって裁かれる主よ。
わたしに見させてください
あなたが復讐されるのを。
わたしは訴えをあなたに打ち明け
お任せします。
(エレミヤ 11:20 新共同訳)

 エレミヤも神が復讐するという伝統的信仰を固く信じていました。神に信頼する者には祝福が臨み、神に背く者には災いが臨む、という信仰です。詩編第一編にはその信仰よく示されています。

3.しかし、現実はそう単純ではありませんでした。

 神の力が、人間の歴史に介入することとは、オートマチック(自動的、機会仕掛けのように)に神が働くことではないのです。

 人間の悪は、人間の歴史の舞台で、人間の責任において取り組まれる問題なのです。

 そこでは、正しい者が、苦しまねばならないという歴史の現実があります。その現実を受けて立つ人間その者を支える力として(神が)働くことを悟ったのが預言者でした。

 そこに至るまでに、エレミヤはいろいろな試練をくぐり抜けます。エレミヤは絶望の声を上げています。

 20章の有名な言葉です。

「呪われよ、わたしの生まれた日は。
……なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い、
生涯を恥の中に終わらねばならないのか。」(20:14-18)

 また、預言者であることについて

主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされて、
 あなたに捕らえられました。
あなたの勝ちです。
わたしは一日中、笑い者にされ
人が皆、わたしを嘲ります
(20:7)

 と言っています。

 しかし、エレミヤは、そこをくぐり抜けて、神の言葉を預って、苦悩する預言者と言われる活動を続けます。歴史に生きるのです。

3.「歴史認識」という言葉があります。

 中国・韓国と日本(特に歴代・現在の政権)との間に横たわる溝になっている言葉です。日本が過去の侵略戦争(日中戦争・太平洋戦争)で侵したアジア侵略の罪責の歴史を認識することですが「皇国史観」はこれを認めません。

 これに加えて「歴史認識」が希薄なのは、日本の文化の問題でもあります。聖書が日本の文化に貢献するとすれば、「歴史を生きる」ことを神(超越者)との関わりで捕らえる自覚を促していることではないでしょうか。

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エレミヤのとりなし(2014 エレミヤ ⑤)