マルコ福音書 13章32節-37節
2014.10.12、明治学院教会 礼拝説教 信徒講壇⑦ /修養会講師
(日本基督教団教師、前明治学院教会牧師 健作さん81歳)
気をつけて、目を覚ましていなさい。 マルコ福音書 13章33節
1 、人間は関係存在である。このことが分からないというのでは困る。谷川俊太郎の有名な絵本作品に、『わたし』がある。主人公は、やまぐちみちこ5才。
「おとこのこからみるとおんなのこ」 「おかあさんからみると、むすめのみちこ」「がいじんからみるとにほんじん」…「お医者さんからみると患者」「お店にゆくとお客さん」
…小さい子も、人はいろいろな関係で自分を自覚する。
2、人間の関係には大きく二つの流れがある。
・第一の流れ。
非人格的関係(物との関係)、利益社会関係、
力の関係(地位【権力】、経済力、武力、△の構造)、観念的関係。
・第二の流れ。
人格的関係(人との関係)、共同社会関係、
平等の関係(差別をしない、○の講造)、実践的関係。
実際の生活を包んでいるのは、第一の流れである。
しかし第一の流れだけでは、生き生きした人間らしさが失われる。
そこで第二の流れとの間に葛藤が起きる。
第二の流れから、第一の流れを、どれだけ相対化できるかが問題である。
そこには価値観の選択、心と現実との間の闘いが生じる。
3 、今、物事を非常に単純化して考えてみることにする。第一の流れを「お金の支配」に象徴させたとする。第二に流れは「命の充実」だとする。多少図式化を我慢すれば、聖書に描かれた歴史を振り返ると、「お金」(旧約ではバアルの神。新約では富)と「命」(ヤハウェの神、契約の神、イエスがもたらした命)との攻めぎあいの歴史が見えてくる。その攻めぎあいで現実に苦しんだのは、預言者たち(参照マタイ 5:11-12)である。
イエスはこの攻めぎあいで十字架に付けられて殺された。しかし、その死が、それで終わりではなく、その死を通さなければ見えてこない「出来事」を、弟子たちは「イエスは生きておられる、復活した」という信仰(福音)で生きた。そして後々の教会は「歴史の主」「神の宣教(ミッシオ・デイ)」という信仰で、現実の暗さ・重さ(罪)の中で「目覚めている」(赦されている)生き方を呼び覚まされて生き、働いてきた(宣教)。
4、マルコ福音書が書かれた当時の教会には「熱狂主義者」という「世の終わりはもう間近」と言って毎日の足下の生活を疎かにした、浮わついた一群の人々がいた。信仰を持ちながら観念的で、現実を見つめない人々である。信仰を標榜しながら、「第一の流れ」に呑みこまれた。
そういう人々を念頭において「目を覚ましていなさい」と呼び掛けたのが、マルコである。「お金」から「命」への闘いを自力でするのではない。イエスが共にいまして、私たちに絶えず命の関係へと呼び覚まして下さるのだから、慌てることはないという信仰である。
約束した友達の訪問の到来を待つのは「うきうき」するものだ。「その時がいつかわからない」 。だから謙虚でありたい。
一日修養会 礼拝説教 2014/10/12 於単立明治学院教会
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