とりあえず(2014 川和・礼拝説教)

2014.11.9、川和教会礼拝説教

(前川和教会代務者、前明治学院教会牧師、教団隠退教師、健作さん81歳)

ルカによる福音書 13章6節−9節(「実のならないいちじくの木」のたとえ)
木の周りを掘って、肥やしをやってみます」(8節)

1.新聞の「発言」欄に、ある高校生の「不登校しても自殺しないで」という投書が出ていた。「いじめが原因で自殺する10代が増えている。……無理して学校へ行くよりも、とりあえずは、ともかく生きていてほしいと私は願う」(東京新聞 2/12)。

 きっと、差し迫った危機にある友人をかかえているのであろう。「命の問題」は「とりあえず」対処しなければならないことが多い。ともかく肯定と足許が大事だ。

2.今日の聖書テキストはイエスの譬え話「実のならないいちじくの木」の話。イエスの時代には、これとよく似た民話が流布していたという。そこでは木は切り倒される。イエスは此の民話を下敷きにして、その民話とは異なった結論を、あえて語った。いや「とりあえず」語ったのかも知れない。

3.パレスチナでは、ぶどう園には果樹園のように他の木が植えられていた。最初の3年間は成長する期間として期待され、猶予されたが、実を結ぶ見込みがない、土地をふさぐだけだ、と持ち主は考えた。いちじくは養分を良く吸う。ぶどうの木にも良くない。8節。「肥料をやってみます」。いちじくの施肥は普通はなされない。しかし、この園丁(職人)は、「鳥観図的」に、ぶどう園の経営利益よりも、目の前の現にそこにある一本の植物の命の視点から「虫観図的」にものを考える思考を長年の人生で身に付けていた。職人気質でもある。「イエスの物語る出来事はいずれの場合も生の模写である。」(A・ユーリッヒハー)。効率(お金)か、自然(命)か、単純に考えると、「いのち」からものを考えるという、根本的な命題を含んでいる。

4.この譬えを、イエスの内面に踏み込んで関係づけて考えている新約聖書学者がいる。「神の国」を天の祝宴として把握していたのがイエス。「神の国」は天上では実現している。地上の現実は貪欲に満ち、なんという悲惨。イエスの内なる現実と、実際の宣教の局所的現場との間にギャップがある。つまりこの譬えは、イエス自身の内側の不調和を垣間見させる(大貫隆)。

「とりあえず、木をぶった切るな」。効率の思考を止めよ。命の回復を願い。また「神の国」の到来を願い、祈り、「まず、待て」という思考への促しがある。将来に開かれている。

5.「会社がもうかれば、人間の命などどうでもいい。それが再稼働(川内)の欲望だ。」ルポライター鎌田慧氏は9月30日、鹿児島市天文館公園で7500人の「さよなら原発」集会で怒りを込めて発言している(東京 9/30)。この週、川内原発は遂に再稼働へと踏み切られた。

 同時代人として私は「怒り」を共有する。イエスの時代も、経営中心の大地主や神殿経済に依存する祭司や律法学者が力を持っていた。イエスは怒りと憂いの心を宿しつつ、民衆へは「とりあえず」日常の命に目を留めて「生きよ」との励ましと希望を、この譬えに託したのではなかろうか。現実の厳しさを譬えで語るイエスの感性に驚きを覚えたい。

 私たちも「とりあえず」を日常に生かし続けたい。