言葉が力を与えられる時(2014 信徒講壇 ⑥)

2014.9.14 明治学院教会(信徒講壇 ⑥)聖霊降臨節 ⑭
(配布「聴き手のために」はPDFで掲載)

(日本基督教団教師、前明治学院教会牧師 -2014.3、81歳)

ヨハネ 14章25節−31節

1.人を動かす力

 イエスの言葉には人を動かす力がありました。

「その教えにひどく驚いた。それは律法学者のようにではなく、権威(エクスシア)ある者のように教えられたからである」(マタイ 7:28)

「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マタイ 7:28、新共同訳)

「あなた方は地の塩……世の光である」(マタイ 5:13-14、新共同訳)

 と言われた民衆は、生きている価値を自覚し元気が出たのです。

 その言葉も、イエスの死で過去のものとなってしまいます。過去の言葉がなお力をもったのは、そこに人格の関係があったからです。その関係の背後には「神の力」がありました。

2.イエスの言葉

 今日のテキストの「これらのことを話した」(ヨハネ 14:25)は生前のイエスの語られた言葉全体を意味しています。それらが弟子たちの現在になお力を持ったのです。それは過去が現在に生きることです。

 森有正氏(1911-1976 哲学者『遥かなるノートルダム』)は、氏独特の用語法ですが、人はあることを体験したままでは、それはやがて過去になる。しかし「体験」したことがもし「経験」になるなら、それは現在の力となる、と言っています。

 イエスの言葉も、それぞれの人生の「経験」となる時、新たな力となるのではないでしょうか。私たちが、信仰生活の中で「御言葉に生かされる」といっている出来事です。聖書の言葉が今の生活の文脈に生きて働く経験です。

3.聖霊の働き

 ヨハネ福音書はその出来事を「助け主」即ち「聖霊」の働きだと解説しています(ヨハネ 14:26)。「わたしが話しておいたことを思い起こさせる」という言葉です。

「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ 14:26、新共同訳)

 神学者ボーレンは「聖霊とは、言葉を与えるものだ」といっています(使徒2章など参照)。聖霊はイエスの言葉を過去のものとして理解させるのではなく、言葉を現在の力として働かしめる(想起させる)ものだということです。

4.聖霊を受ける

「聖霊を受ける」ことで、私たちは、イエスの出来事を大胆に再解釈し、現在化し、経験化させられるのです。

 例えば「思い煩うな」は、重い現実を相対化します。それは自分の言葉をもつことです。その時、人は27節のごとき「平安」(心を騒がせない生き方)を持つでありましょう。「助け主」はその事を起こさせます。

 聖霊は私たちの側の意識を越えて、神が働きかける関係です。別の表現では、イエスが共にいます安らぎです。言葉が力を持つのはその証しではないでしょうか。

5.「疲れたでしょ」

 これはむしろ病人に父から発せられるべき言葉でした。だが、これが父への彼の最後のことばになりました。先天性の心疾患、4才での大手術、併発する癲癇を抱えて酪農大学卒業までの学び、輸血によるC型肝炎から肝臓癌、病気を隠さないで済む共働学舎での生活、ホスピスで終わる44才。『独立教会教報』(328号)でY.Kさんの、葬儀・追悼号を読みました。

 人生最後に力のこもった、身近な者への労りのある自分の言葉を発するYさんのその生き様に感動させられました。

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