信仰の益(2014 礼拝説教)

2014.1.19、 明治学院教会礼拝(326)降誕節 ④
於YMCAとつか保育園(センター試験のため)
(配布「聴き手のために」はPDFで掲載)

(単立明治学院教会牧師、健作さん80歳)

ヨブ記 21:1-15、ローマ 8:26-30

▶️ 牧会祈祷
⬅️ 2010年版「信仰の益」(礼拝説教)

1.

 ヨブ記のストーリーを思い出してください。

 ヨブは神を恐れる全き信仰者でした。それにも関わらず、一朝にして全財産を失い、7人の子供たちと死別し、自身重病に苦しみました。

 序章・1−2章の物語の結論は

「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(ヨブ記 2:10、新共同訳)

 とのヨブのゆるぎない信仰でした。

 しかし、不条理の苦難を巡って、3人の友人たちは「因果応報」の固定観念でヨブを責めます。「不条理ではない。どこかで罪を犯しているのだ」と非難します。そこから長い対論のドラマが3章〜42章に渡って展開されます。

 そのテーマの一つに(サタンの言葉として)

「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」(ヨブ記 1:9、口語訳)
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(同上、新共同訳)

 という友人たちのご利益信仰こそが信仰の一般的通念だとの考えが披露されます。

 現に私たちの周りの諸宗教は、健康、入試の合格・仕事の成功、家内安全、商売繁盛の神を説きます。

 しかし、ヨブ記は不条理を含めて、神と対峙するヨブの実存的あり方に「神への関係」(ヨブ記 13:3)を示しています。

 わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。わたしは神に向かって申し立てたい。(ヨブ記 13:3、新共同訳)

 21章は、3人の友人との対論を2回ずつ繰り返した後の、6回目のヨブの弁論の箇所です。

2.

 ヨブは、友人たちが何回も固定観念化した言葉で、ヨブに「説教」するのに我慢がならず、

 どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。(ヨブ記 21:2、新共同訳)

 と訴えます。ここには「聞くことの関係」の大事さが言われています。

 あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。(イザヤ 6:9、口語訳)
 よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。(同上、新共同訳)

 とありますが、「聞く」ことは人格的衝撃を大事にすることです。

「あ、分かった」と自分の知識の整理棚に収めて満足してはならないのです。

 ヨブは「我慢して、わたしに話をさせてくれ」(21:3、新共同訳)と言います。

 ヨブは「慄然とし、身震いが止まらない。」(21:6、新共同訳)この世の現実を友人に訴えているのです。

 それは、6節から13節の「悪人が栄える」この世の姿、そして

「われわれはこれ(神)に祈っても、なんの益があるのか」(21:15、口語訳)

 と言い放つ「悪人」の存在の、やりたい放題の不条理を、3人の友人の綺麗事の「神学的理解」にぶつけています。

3.

 ヨブ記はその通俗的因果応報の信仰理解、つまり人生の”損益計算書”に出てくる”黒字”だけを「益」とする考えを批判します。

 ヨブ記はこの「益」をしばしば問題にしています(1:19、1:21、21:15、34:9、35:3)。

 この「益(ヤータブ)」は「助けになる、役に立つ、益になる(商業用語)」という意味で、ヨブ記、イザヤ書、エレミヤ書では、ほとんど信仰から見て「益ではない」「役に立たない」という否定的な用い方をされています。

 イザヤ書48章17節では「わたしはあなたを教えて力をもたせ(益)」と肯定的に用いられています。

 これは、アッシリアがバビロン捕囚のイスラエルを解放する文脈です。

 つまり、地上の”損益計算書”を相対化し、天上にまで広げ、それを含めた「益」「力」を考えます。

 元来、信仰の「益」とは地上では逆説であり、無益の益であります。

 私たちは「益」の尺度を少し大きく取るように、信仰の世界へと召されているのではないでしょうか。

 神は……万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。(ローマ人への手紙 8:28、口語訳)

 とは、危機における拠り所です。

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