信仰の益(2010 礼拝説教・ヨブ)

2010.9.19、明治学院教会(204)

(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん77歳)

ヨブ記 21:1-15

1.「ヨブは答えた。」(ヨブ記 21:1、新共同訳)と始まるこの章は、前章のツォファルの論述への反論ですが、内容的にはすでに語られた、三人の友人たちの2回ずつ計6回の弁論への反撃です。

 友人の論点は初めから変わらないのです。

”神に逆らう者が神から受ける分、神の命令による嗣業はこれだ。”(ヨブ記 20:29、新共同訳)

 つまり罰について語るのです。

 一度自分の中に固定した観念が出来上がってしまうと、それを組み替えてゆくことがいかに難しいか、それは我々の日常にもよくあることなのですが、その標本を反面教師的に示しているのが、ドラマとしてのヨブ記です。

 ヨブは「まず聴け」と、関係の転換を求めます(21:2)。

”どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。”(ヨブ記 21:2、新共同訳)

「私に顔を向けてくれ」と、人格的に向き合うことを求めます(21:5)。

”わたしに顔を向けてくれ。そして驚き、口に手を当てるがよい。”(ヨブ記 21:5、新共同訳)


「あなたはくりかえし聞くがよい。しかし、悟ってはならない。……分かってはならない」とはイザヤ書6章9-10節の言葉です。

”主は言われた。「行け、この民に言うがよい、よく聞け、しかし理解するな、よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」”(イザヤ書 6章9-10節、新共同訳)

 これは、神の言葉を聞く基本的姿勢について言われていることです。


 衝撃・驚きのないところには「出会い」は起こりません。

 人格的に向き合うことは、常に衝撃・驚き・自分の内なる変革であって、「ああ、分かった」という自分の了解や知識への取り込みではないのです。

 しかし、ヨブは相手の「観念の石頭」を梃子にして論述を深めていくのです。

2.友人は「因果応報(よいことをすれば報いがある)」を確固たる信念で説きます。

 ヨブは「悪人が栄える」という身体の震えるような不条理な現実を語ります(21:7-13)。

”わたし自身、これを思うと慄然とし、身震いが止まらない。”(ヨブ記 21:6、新共同訳)

 14-15節では、その悪人の言葉を引用し、根本的懐疑を語ります。

”彼らは神に向かって言う。「ほうっておいてください。あなたに従う道など知りたくもない。なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるのか。”(ヨブ記 21:14-15、新共同訳)

 これは「因果応報」の教理では慰めにならないことへの宣言です。

 ヨブは彼らの論述を退けます。

”空しい言葉でどのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない。”(ヨブ記 21:34、新共同訳)

3.さて、口語訳で「益」と訳されている「”ヤーアル”(15節)」は、ヨブ記の基本テーマです。

”全能者は何者なので、われわれはこれに仕えねばならないのか、われわれはこれに祈っても、何の益があるか』と。”(ヨブ記 21:15、口語訳 1955)

 ヨブ記において、サタンは「ヨブはいたずらに(利益もないのに)神を恐れましょうか」(ヨブ記 1:19)と根本的命題を繰り広げました。

 宗教は、現世の御利益に根拠を持つ、という考え方です。

」(ヨブ記 34:9、35:3)は、ヨブ記では、ほとんど否定的に用いられ、地上の利己的「損益計算書」の黒字的意味には用いられてはいません。

”「神に喜ばれようとしても、何の益もない」と彼は言っている。”(ヨブ記 34:9、新共同訳)

”またあなたは言う。「わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるのか。」”(ヨブ記 35:3、新共同訳)

4.「益」の用い方として、イザヤ書には次の一節があります。

”あなたのあがない主、イスラエルの聖者、主はこう言われる。「わたしはあなたの神、主である。わたしは、あなたの利益のために、あなたを教え、あなたを導いて、その行くべき道に行かせる。” (イザヤ書 48:17、口語訳 1955)


”イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる。 わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。” (イザヤ書 48:17、新共同訳 1987)

 イスラエル民族が、国家の滅亡とバビロン捕囚を経験した時、教えられた「利益」です。

 苦難の後、ペルシャのクロス王が興され、民族がバビロニヤの桎梏から解放されるという壮大な歴史のドラマの価値観の転換の中で使われている「益」です。

 神の歴史的尺度での益です。


 国益のための「大東亜戦争」の最中、矢内原忠雄が「日本は滅びなければだめだ」と世俗の「益」に逆らう逆説的な滅びを語ります。

 ベトナム戦争の時、反戦活動で「愛国心」を示した米兵たちがいました。

「益」の逆転です。


 ヨブは「私は、絶望だ、しかし、なお私は私の道を彼(神)の前に守り抜こう」(13:15)と神に顔を向け続けます。

”見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは、絶望だ。しかし、なおわたしはわたしの道を、彼(神)の前に守り抜こう。”(ヨブ記 13:15、口語訳 1955)

”そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。”(ヨブ記 13:15、新共同訳 1987)

 ヨブは友人たちの「固定観念」に屈することなく、信仰による益を求め続けます。


 パウロは「信仰と益」の関係をローマ書で次のように述べています。

”神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。”(ローマの信徒への手紙 8:28、新共同訳)

”神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。”(ローマ人への手紙 8:28、口語訳 1955)

「益」という言葉に「逆説的意味」を持たせるのが信仰と言ってもよいかもしれません。


益とは何か、私にとって」と神に問い続ける生き方をすすめたいと思います。

「天に宝を積む」(マタイ 6:20)もその逆説的表現の一つです。



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