2010.9.12、明治学院教会(203)
(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん77歳)
ヨブ記 19:25-29
”この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。”(ヨブ記 19:26、新共同訳)
1.私たちは、自分の人生を振り返り、強気の時と弱気の時があるのに気づく。
ヨブ記にも「強気のヨブ」と「弱気のヨブ」を感じる。
前回、13章では友人を「無用の医師」と決めつけた「強気のヨブ」を垣間見た。
◀️ 前回説教「唯われは吾道を神の前に明らかにせんとす」
しかし、19章は「弱気のヨブ」を覚える。
”憐んでくれ、……なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、わたしを追い詰めるのか。”(ヨブ記 19:21、新共同訳)
ヨブは自分が正当に理解されることを願って二つのことを求める。
一つは後世への希望。
”どうか、わたしの言葉が書き留められるように”(ヨブ 19:23、新共同訳)
もう一つは「贖う者」への期待である。
2.旧約での「贖う者」についての理解は多様である。
① 人が殺された時、仇討ちをする人(民数記 35:19)
② 失われた財産を回復する親族者
③ イスラエル滅亡後、神ヤハウェがイスラエルを回復する意味
④ 他の者の罪を負って犠牲となる者(イザヤ 53:5,12)これは新約での贖罪者キリストの思想に繋がった。
⑤ 潔白を弁護する者、ヨブ記独特の思想。
”このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天にはわたしを弁護してくださる方がある。”(ヨブ 16:19、新共同訳)
”あなた自ら保証人となってください。ほかの誰がわたしの味方をしてくれましょう。”(ヨブ 17:3、新共同訳)
強気のヨブには、激しく彼を打つ神、隠された神が、弱気のヨブには、弁護者、癒す神が願望される。
3.内村鑑三は、第一の神を、ヨブを苦しめる神、裁きの神、義の神とし、第二の神を、仲裁者、証人、保証者、贖う者(ゴーエール)、愛の神、憐れみの神とする。
そして、第二の神を新約聖書ローマ書の贖罪者キリストに結びつけ、ヨブ記の解釈とする。
このように解釈してしまうと、ヨブ記が本来持つ意味が薄れる。
ヨブ記は友人の宗教的まとめという幻想を否定し、問いを突きつけている書物であって、このような解釈には、ヨブ記研究者の多くは同意しない。
ヨブ記は人間本来の生き方を阻む力(社会や時代や世界の通念とその暴力的構造、それに加担する宗教そのものの在り方)に抗する「抗暴の書」としての性格をも持つ。
参照:池永倫明『「抗暴の書」ヨブ記随想』(キリスト新聞社 2001)
ここを納得のいく宗教的まとめに戻してはならないのが、ヨブ記を読むことの基本ではないか。
4.旧約学者・関根正雄は、強いヨブと弱いヨブの関係を「船人はその船が難破させられる正にその岩に最後にしがみつく」(ゲーテの物語を引用して語るカール•バルトの言葉)という文学的表現で事柄を言い表している。
救いは「逆説」でしか言葉にならないことは「夜は更け、日は近づいた」(ローマ 13:12)がよく示している。
ヨブ記19章は、この逆説を深く突いている言葉であろう。
吐息を吐く中でこそ、神を味方として確信する生き方を促されてゆきたい。
お互い「吐息を吐く」ことは、多い。
そして個人的吐息は、時代の人間的吐息に、社会の片隅の吐息に、世界の細部の吐息に、繋がっている。
◀️ 2010年 礼拝説教