2010.9.5、明治学院教会(202)
(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん77歳)
ヨブ記 13:1-16
”唯われは吾道を彼の前に明らかにせんとす”(ヨブ 13:15、文語訳)
1.ヨブ記を連山に譬えると、聳える峰が幾つか連なる。
1−2章の物語は代表的主峰といえよう。
ヨブが自らの生まれた日を呪う3章が鋭く聳える。
3章から27章までのヨブと3人の友人との論争の長い峰々がそれに続く。
エリファズが「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人」(5:17、新共同訳)とヨブをたしなめると、ヨブとはすれ違ってしまう論争が印象的である。
13章は、その友人との論争の頂点とも言える峰である。
2.ヨブと友人との論争は噛み合わない。
何故か。それは同じ土俵がないからである。
土俵が二つあって、土俵そのものがぶつかり合っているからである。
ヨブは現実の苦しみに立つ。
友人は伝統的教えに立つ。
言い換えると「現実」と「観念」の違いである。
現実の苦しみに関わるのは、共に苦しむ以外にない。
ヨブには「救いの観念領域」の土俵に入り込んで議論をする余裕はない。
現実の苦難は苦しむ以外にないからである。
13章の凄さは、「そんなことはみな、この目で見、この耳で聞いて、よく分かっている」(13:1、新共同訳)と、友人の「教え」の土俵を、ヨブがエイヤァーとぶっ飛ばすところにある。
3.「わたしが話しかけたいのは全能者なのだ」(13:3、新共同訳)と宣言をして、友人を「役に立たない医者だ」(13:4)といい、「どうか黙ってくれ」(13:5)と、ヨブの苦しみに心を痛めない友人にパンチを食らわす。
「役に立たない(エリール)」の複数形は「偶像」を意味する。
言葉の観念化もそれと同じなのだ。
4.13章の区分を記す。
① 無用の医師(1-6)
② 立場の違い(7-12)
③ 神と論じる(13-16)
④ 神への二つの問い(17-23)
⑤ 隠れた神(24-28)
ここでは、苦難は、体系・説明・解説・饒舌の言葉を失わせる。
沈黙がなくては苦難への共感はない。
”言葉は沈黙から…言葉に先立つ沈黙は、精神が創造的に働いていることのしるしなのだ。”(『沈黙の世界』M.ピカート、みすず書房 1964)
心の底に沈黙があって、共にそこに存在することが許される。
神を説明できるような体系を作ることは人間の不遜であり、傲慢に属する。
積極的沈黙は、「自分の正しさ」を砕かれることを知らされる。
5.私の知人、真宗大谷派の淡路島の住職・望月上人は親鸞の教えを実践で説く方。部落解放運動に取り組んでいる。
「教義では現実は救えない」と言われる。
もちろん、教義を大切にしている人である。
賀川豊彦は言う。
”信条だけで世界が救いうるとは考えていない。信条が必要でないというのではなく、信条や教義とともに社会での贖罪愛が必要なのである。”(『友愛の政治経済学』賀川豊彦 1937)
「贖罪」とは「苦悩」に他ならない。
ヨブ記での一つの問題提起は、友人に対してヨブが「言葉の権力構造化を鋭く問う」ところにある。
私は「沖縄の苦悩」から「本土が訴えられていること」を連想する。
6.13節以下後半は「神に問う」ヨブが姿を現す。
新しい展開である。
”神はわたしを殺されるかもしれない。だが、…わたしの道を神の前に申し立てよう。”(ヨブ 13:15、新共同訳)
”わたしの言い分に耳を傾けてくれ。”(ヨブ 13:17、新共同訳)
”なぜ、あなたは御顔を隠し、わたしを敵と見なされるのですか。”(ヨブ 13:24、新共同訳)
ここからの壮絶なヨブに出会ってゆきたい。
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