2012.5.20 明治学院教会(273)復活節 ⑦
(配布「聴き手のために」はPDFで掲載)
ヨハネの手紙1 2:28-3:3、エレミヤ 9:22-23
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」ヨハネ1 3:2
明治学院教会は1995年3月28日の法人439回理事会の「理事のキリスト者条項に弾力性を付与する決議」に基づき設立が意図されました。2003年5月25日に発足した単立明治学院教会が、その決議の「学院教会」に該当するものとして、改めて法人理事会と「合意書」を交わし、その日を創立記念日としました。今年で9年経ちました。
私は、2006年からこの教会の牧師を(神様から)仰せつかっています。2007年、創立記念日に「戸塚のチャペル今日は教会」という説教で、「明治学院教会は風呂の蓋」だと申しました。「要る時に要らなくて、要らない時に要る」という意味です。必ずしも皆さんに納得いただけたかどうか疑問ですが、哲学を称して「ミネルバの梟」(ヘーゲル)と言ったような意味でした。教会は、執り成しの祈りと、世俗の価値観の相対化を迫る「十字架の福音」の宣教に徹すという事でした。
2010年には、この教会のあるべき方向を「集められた教会、散らされた教会(ギャザードチャーチ・スキャタードチャーチ)」と申し上げました。日曜日にはこのチャペルで礼拝のため集められ、週日はそれぞれ一人一人の信徒・求道者の生活現場に生きて働く「神の業」がある、という意味です。そのことをひしひしと感じたのは末期癌の方の病床でした。
昨年、この教会に3人の方が、会員として名を連ねられました。洗礼を受けられた姉妹は、長年御家族に繋がってキリスト教に関わりを持ってこられました。不思議なことにお家がこの教会に近いということで、ここで受洗に導かれました。洗礼式をじーっと見ていた一人の幼子がその後「僕も神の子になる」と言って、幼児洗礼を受けられました。それを機会に、長年、母教会に籍を置かれていた「おばあさま」が、その大きな教会から小舟のような明治学院教会を、ご自分の地域の教会として選んでご転会になりました。この教会も大きな「見えない教会」につながっているのです。
今日のテキストには
「御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば……御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません」(ヨハネの手紙1 2:28)
とあります。「とどまる(待つ、残る、住む、続ける、生き長らえる、宿る)」がこの手紙には23回(新約118回中)も用いられています。信仰における主体的側面の重視です。
しかし、本論は「御子が来られるとき」という客観的・歴史的側面にあります。難しい表現をすると
「キリスト教信仰における終末的出来事は(現在的であって同時に将来的なものとして)、イエスの来臨という歴史的出来事に根拠を持っているという逆説の告知が主張するところに存在する」(ブルトマン p.67)
(サイト記)上掲ブルトマンの引用、書名がわからないため、確認はできていません。
ということです。ひらたく言えば「イエス様がおられるのは確かなのだから、おたおたしないで、しっかりするのだ」ということです。
明治学院教会と賭けて何と解く。今年は私はダイヤモンドと解くと申し上げます。その心は、それぞれの研磨面が輝きを放つ。それぞれの信徒また礼拝参加者がそれぞれの生活で研磨面を与えられて輝きを放っているということです。その研磨面とはイエスの出来事(あの歴史的出来事)にとどまって(主体的に)生きるということです。「教会の個性」です。この教会も同じくです。
エレミヤ 9:22-23
主はこう言われる。
知恵ある者は、その知恵を誇るな。
力ある者は、その力を誇るな。
富ある者は、その富を誇るな。
むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい
目覚めてわたしを知ることを。
わたしこそ主。
この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事
その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。

