戸塚のチャペル、今日は教会

2007.5.20 明治学院教会 創立4周年礼拝説教
明治学院教会通信 2007.12.23号「切り株」第4号所収

マルコ福音書 8章31節-38節

 明治学院大学、横浜キャンパスの正門から、緑に囲まれた緩やかな坂を登ると、森の空間のチャペルが、山の稜線を思わしめる屋根の線と、そびえる塔の直線との構図を通して、霊的な雰囲気をもって迫ってくる。それはまたキリスト教主義に基をおく明治学院の建学の精神を象徴している。学院は宗教部をはじめ、キリスト教研究所などをおいて広い意味でのキリスト教の宣教活動をしている。キリスト教の宣教とは何か。それには二つの面がある。

 一つはキリスト教の知見を伝えること。歴史、社会、経済、政治、文化がキリスト教主義教育機関の活動領域であろう。この人格的感化の責任主体について印象に残る文書がある。『明治学院百年史』の中の「奉仕と和解の共同体」という見出しの一文である。

 「共同体としての明治学院のあるべき姿は、信仰の共同体としての教会に準じるものでなければならない」が、現実の学院では、「少数のキリスト者と大多数の非キリスト者とによって構成」されている。「このような現実における学院の共同体としての形成にあたって、キリスト者である教職員・学生・生徒が、それぞれの交わりの中で果たす宣教的使命の役割は重要」であるとはいえ、「かれらの働きは、決して非キリスト者である教職員・学生・生徒を改宗せしめ、学院内におけるキリスト教的勢力を拡大することに本来の使命がある」のではなく、「教育に関して、それが真の人間形成という課題を果たすために、人間疎外や非人間化への強い傾向に陥らぬようにたえず見張り、警告するとともに、そこに生ずる誤りに対して、とりなしの務めを果たすこと」にあると言える。このような教育への奉仕と和解の業から「信じるものと信じないものとを結び付ける共同体の意識」が創出され、「いわば、学院における共同体とは、教育をつうじての奉仕と和解の一致」であり、「この一致が学生・生徒にたいする人格教育のすぐれた基盤を提供するものとなることはいうまでもない」(『明治学院百年史』1979、p.692-693)。

 ここで、明治学院のキリスト教宣教の責任主体が学院に関係するキリスト者であるとは卓見である。それは、客観的にキリスト教の知見を伝えるだけではなく、それが目指す共同性に巻き込む主体としての役割までも視野に入れた責任主体である。しかし、そこを「人格教育のすぐれた基盤を提供する」責任であるとだけ述べるにとどめているその射程にはよくよく注意を払う必要がある。

 宣教の第二の面は、いわゆる直接に伝道と言われる分野、個人に「信仰」への決断を迫る部分である。それは教育機関とは別な「教会」という人格的主体に委ねる以外にはない。だから、この学院に関わる「教会」があろうがなかろうが、こと「伝道」という個人の決断に関わる面は、「諸教会」が担っている。それはいわば「町の教会」「地域の教会」あるいは「キリスト教学校教育同盟」「諸キリスト教教団」に関わる「教会」に任せられるべきことである。そこが教育機関と信仰共同体(宗教団体としての教会)の役割が異なるところである。当然その意味での明治学院教会の果たすべき責任の一面はあくまでも「教会共同体」形成である。

 では、なぜ「明治学院」教会なのか。教会が誕生した歴史的経過は、皆さんがよくご存知なので、今日は改めて触れない。ここでちょっと思考を転換したい。なぞなぞ遊びをしたとする。「明治学院教会とかけて何と解く」といわれたら、私は「風呂の蓋」と解く。その心は「要る時にはいらなくて、いらないときに要るもの」である。大学が活動しているウィークデーは「教会」は出番ではない。宗教部は毎日「チャペル」を行っている。しかし、大学が講義など活動をしていない日曜日に、そのチャペルで、礼拝を行っているのがこの教会である。これは不思議な光景だ。学院の教会だからといって、理事や評議員が特に来られるわけではない。キリスト者である方にはご自分の教会があって、学院とは関係なく教会生活をしている。もちろん個人的には、自分の職場である学院、キリスト教主義である学院のために祈っておられると思う。

学校は学校、教会は教会と役目が違う。学生は、日曜日にはそれぞれに地域の教会の礼拝に参加することが期待されている。そういう意昧ではこの学院内教会もその一つであるには違いないが、それ以上のものではない。しかし、それではなぜ、わざわざ学院理事会が「教会」の設置を決議したのか。学院は風呂を使っている時だけ、つまり教育・研究の分野での働きのすべてで明治学院の使命が終わっているとは考えていないことを暗に表明しているのではないか、と私には思える。風呂に入る時が終わっても、風呂の熱が逃げないように蓋の必要を感じているのではないか。「教会」に課題を預けなければならない事柄があるのだ。そこが微妙なところだ。現代にキリスト教を旗印として掲げる教育機関は様々な知恵を絞って運営をしなければならない。形式的にクリスチャンだけで経営するのだ、ということでは非キリスト教文化の国では柔軟性を欠く。名目は「キリスト教主義」でも中身は世俗化に陥る事だってあり得る。そこを、どのように生き抜くのか、キリスト教主義の主体的責任をどのように果たして行くのか、そこの苦悩と知恵が、そして学院では少数者であるキリスト者の自覚が、「学院」の名を冠した「教会」を生み出す決断であったであろうと察する。

 「教会」の働きを、ただ学院外の地域教会に委ねるだけにとどめないという選択がそこにはあった。いわば「蓋」の必要を神から示されたのだと思う。もちろんそこには、周知の「通称明治学院教会」という歴史の時の経過が必然であったことも察せられる。だから、理事会は最初の教会設置の決議が可能であったのかもしれない。その辺りのことは後に役目を負った私にはよく分からない。歴史的経過に携わった方々の理解をお聴きしなくてはならない。逆の面から見れば、この「蓋になる覚悟」がこの教会には「神から」求められていると思う。

 哲学の世界で有名な言葉に「ミネルバのふくろうは夕闇と共に飛び立つ」というのがある。哲学者ヘーゲルの言葉だ。ミネルバのふくろうとは哲学のこと。哲学は個々の学問の様にすぐ役には立たない。例えば、天文学、海洋学、地震学、言語学、といったものは実用の学だ。しかし、それらの学問を総合的に締めくくって行くのが哲学。実用的なものが活動する昼間が終わって、タ闇が始まった時、ふくろう(哲学)は鋭い感覚で動きだす。明治学院のキリスト教の週日という昼間の活動が終わり、皆が休む日曜日がきて、教会の鋭い働きが始まる。

 私は、かつて、この教会は学院との関係では「」のごとき存在だ、それは聖霊による自由をもたらすものだ、と語った(「切り株」3号)。それをもっと異なる面からいえば、「ミネルバのふくろう」であり「風呂の蓋」である。それが具体的に何かという事は、求め、探り当ててゆかねばならない。そこに大学のチャペルを「用い」(借用ではない)つつ、なお「教会」である事の意味がある。「自分の十字架を負ってわれに従え」とイエスは弟子を諭している。この教会に託された「十字架」というものがある。それが何であるかは、教会の歩みを、神の招きにしたがって歩んでいくうちに段々とはっきりしてくるであろう。いずれにせよ、それを負う事から歩みだすのが、この「単立明治学院教会」の第4回創立記念日からの新しい歩みだと思う。神はそれをご存じであり、必ず導きを与えて下さると信じる。

 祈ります。

 神よ、私たちは、この教会に召されています。この教会であなたの福音を聴き、この教会で宣教の役目を栗たすように召されています。その意昧がどのようなものであるか、おぼろげなことがたくさんあります。しかしあなたの御手の導きがあることを信じます。あなたが招かれた一人一人を祝福して下さい。主イエスの名によって祈ります。