風、この教会的なるもの

2005.12.11 明治学院教会 創立9周年礼拝説教
明治学院教会通信 2006.11.19号「切り株」第3号所収


(通信「切り株」での補足)この説教がおこなわれた2005年12月11日現在、明治学院教会創立日は、上倉田伝道所が学院と覚書を交わして「通称」明治学院教会を開始した1996年12月8日になっておりました。しかし、この度「単立」明治学院教会が発足した2003年5月25日をもって明治学院教会創立の日とすることが明治学院との間で正式に制定されました。したがって、ここでの「創立9年」というのは、今日では通用しませんのでご注意願います。


ヨハネ福音書 3章1節-16節

 教会の名前は地域名からとられたり聖書からとられたりする。数少ないが、学園・学院の名が付いている教会がある。国際基督教大学教会、関東学院教会、同志社教会、福岡女学院教会、そうしてわが明治学院教会。この中で、学院の古さに対して、教会がずば抜けて新しい設立なのは今の明治学院教会である。しかし、これまで明治学院に教会がなかっだわけではない。『明治学院百年史』によれば、「明治学院教会」は1918(大正7)年10月4日、日本基督教会東京中会によって承認設立された。当時聖書科新進気鋭の村田四郎氏が牧師として就任し、高輪教会から信徒が転じ会員70-80名だったとある。その後カルヴァンの翻訳で名高い中山昌樹氏が牧師となる。歴史の記述をたどると、

「明治学院という限られた閉鎖的社会のなかに設立されたこの教会は、特殊な性格を帯びており、また学校としての明治学院との関係もあいまいであった。のみならず、学生は会員としては極めて流動的であり、また教員、宣教師とその家族も、退職、転任とともに去り、教会として発展することはむずかしかった。中山はこの特殊な教会を牧すること4年に及んだが大正12年2月、教会総会はついに解散の決議を行った。かつて、明治23年5月1日創設された学院教会を第一次とすれば、この教会は第二次というべきであろう」
 「第一次の教会がわずか2年、第二次のそれが約5年という短期間しか命脈を保ち得なかったのは、学校教会の限界を示していると言えよう」(『明治学院百年史』p.284)。
 以後、この学院には教会はなかった。

 今の明治学院教会は第三次の教会である。前の教会が2年、5年と継続したが、今の教会は、それなりに幾つかの困難さを越え、今日9年を迎える。第三次の明治学院教会が誕生したのは、1995年3月の第439回 定期理事会の決議を基としている。「理事のキリスト者条項に弾力性を付与する決議」を契機として、学院の意志で教会は誕生する。その意志を受けて立った「日本基督教団上倉田伝道所」と「覚書」を結んで「通称 明治学院教会」は発足した。しかし、2003年その「覚書」を終了させ、同伝道所は学外で活動を再開した。しかし、学院チャペルでの礼拝と牧会を希望する者たちとそれに応えた学院とにより「単立 明治学院教会」が設立された。この教会が「当初の学院の意志を受け継ぐ」という理解のもと、ここに創立9年の日が迎えられたのである。経緯はいろいろあろう。しかし両教会が、それぞれ「神の招き」によって異なった使命を与えられて、祝福を受けて歩み始めたと理解するのが、歴史の受容であると思う。「適切な時期に学院として責任を負う」とは学院長の言葉である(2003 年7月10日「学院広報」)。

 どの学院の教会も設立の歴史によりその使命が異なり、一概に論じることはできない。しかし、教会が学院のキリスト教主義の使命を覚えて祈りを持つことに変わりはない。学校は国の制度に則った教育機関であり、教会はこの世の根拠を越えた「神の招き」に応える信仰共同体である。直接学校の役に立つ機関ではない。しかし祈ることの役目は持つ。祈りは、直接に関与や作用が出来ないからこそ祈りである。

 さて、この創立記念日の日、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ 3章8節)からの「語りかけ」を聴きたい。聖書で「霊」(プニューマ)を表す言葉は、風、息、呼吸、という意味を持っている。これは我々が身近に体験している事柄をもって、「霊」という神の力の働きを感得するように、という促しである。神の働きはそれ自体としてあるのではなく、風や息や呼吸が自然や人間存在の生命体全体を活かしているように、生命体を活かす力として働いている。それになぞらえれば、私たちは「霊」に揺り動かされて存在し続けている。時として風や呼吸や息のようにそれを意識する。そして「霊」を受けているという認識をする。「キリスト教的な存在は啓示によって基礎付けられた終末的実存である」とヨハネ福音書の注解書を書いた新約聖書学者(ブルトマン)は言っている。そしてここで言う実存を引き起こす神の働きかけが「霊」なのだと語っている。平たく言えば、キリスト者となってイエスに従って生きよう、という意志は、「霊」の力によって生まれるということだ。神からの風が私たちの人格を吹き抜けていくとき何かが起こる。神の啓示(顕わに示すこと)への認識と決断が「霊」によって引き起こされるのだ。教会はこの「霊」によって、立ちもし倒れもする。9年間にわたる神の「霊」の働きを感謝したい。

 ところで、『明治学院百年史』は28年も前に書かれた書物だが、学院の今への「語りかけ」を宿す情熱的な本だ。終章「明治学院第二世紀への展望」の項では、学院の目標の再認識への促しが語られている。創立者ヘボン博士が説いた「DO FOR OTHERS」(他者への貢献)の精神を現代の文脈で理解し受容することへの期待である。それを「奉仕と和解の務めの共同体」の形成と掲げている。それを遂行するのは学院である。教会は学院においては、直接的にその役目を担う機関ではない。しかし、風の如くに、その役目を果たすのが、教会の使命だと思う。霊の働きそのものを証ししつつ存在することだ。この学院の場で「風」の如くさわやかに、時としては「呼吸」の如くにリズムを刻みつつ、「息」の如くひそやかに存在し続けることだ。そのようにして神の委託に応えていきたい。

 祈ります。

 神様、この学院で「奉仕と和解の務め」を担う人々を覚えて、この教会が祈ることができますように。その歩みを祝福してください。上よりの「霊」を豊かにお与え下さい。イエスの御名によって祈ります。