イエスの憤り - 子どもを軽んじる社会への批判(2012 マルコ ②)

2012.2.22、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第30回、「新約聖書マルコ福音書の言葉から」②

(明治学院教会牧師 健作さん78歳)

マルコ福音書 10章13節-16節(参考マタイ19章14節、ルカ18章16節)

 新約聖書の最初の三つの福音書を「共観福音書」と言います。「観点」が同じだからという意味である。それは福音書の成り立ちに由来します。「福音書」という文学形式で、イエスの生涯、振舞い、言葉を収録した作品では、マルコ福音書が一番初めに成立した。

 この書物の著作年代は、紀元70年前後と言われています。エルサレムの神殿がローマ軍によって破壊されたのが70年です。内容からそれより後と一般に考えられている。執筆場所は不明ですが、南シリアないし北パレスチナを想定する研究者が多い。新約聖書の全てがローマ帝国領土内で使われていた共通ギリシャ語(コイネー)で書かれています。

 読者として念頭に置かれたであろう「マルコ」教会にはアラム語を解さないギリシャ語を使う非ユダヤ人信者が多かったと思われる。イエスはアラム語を使ったからおそらくイエスに出会って直接、出会いの物語を伝えた民衆の物語伝承はアラム語で語り伝えられたのではないか。その個々の伝承を使って「福音書」を書いた著者は、作者であると同時に翻訳者でもあった。

 さて、そのマルコを資料として使って書かれたのがマタイとルカの福音書である(80年代から90年代)。マルコに無くて、マタイ・ルカに共通にある言葉や物語は、逆に考えて、マルコとは別な「イエス語録集(Q)」(前回プリントを参照)が想定され、復元されている。しかし、福音書の筋書きの基本はマルコによっているので「共観」と言われる。「新共同訳」では、記事が重なっている箇所がセクション毎に”()”に入れて記載されているので、比較するのに便利である。

 今日のお話は、マルコでは「子供を祝福する」箇所で、マタイ19:13-15、ルカ18:15-17が並行箇所として挙げられている。厳密な用語の比較は研究者にゆだねるとして、一つだけ目立った差異を挙げてみたい。

 物語。イエスに祝福してもらうために、親たちが子供をイエスのもとに連れてきた。弟子たちがその人たちを「叱った」というのである。マルコは「しかし、イエスはこれを見て憤り弟子たちに言われた」とある。マタイは「イエスは言われた」ルカも「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた」となっている。マルコには元来の伝承にあったであろう「憤って」がはいっている。しかし、マタイ、ルカ共に、この「憤り」を省いてしまっている。おそらく、年代を経ると共にイエスは信仰の対象として「キリスト《メシヤ、救い主》論」的に崇敬されたのであろうから、そのイエス様が憤るなんていうのは省いた方が良いという事で省かれてしまったのであろうと思われる。

 伝承は、幼児への通俗的大人の「子ども観」に「憤る」イエスが主眼であった。子どもを人格として見ない事への怒りである。

「子供の人権宣言」を実質化しない、文化・教育・社会・政治への批判的視点をここから読みとることが大事で、イエス像を歪曲させてはならないと思う。

聖書の集いインデックス

バルティマイという盲人 – 人格的出来事は名を伴なう(2012 マルコ ③)

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