キリスト教と暦(2011 とつか保育園 ②)

2011.11.11(金)「YMCAとつか保育園・とつか乳児保育園合同職員会」

(明治学院教会牧師、健作さん78歳)

聖書 ローマの信徒への手紙12章1節−2節(新訳聖書291頁)

「心を新たにして自分を変えて戴き……」(2節)

序、皆さんこんばんは。さて、今晩の私のお役目は、12月17日の保育園・乳児保育園の明治学院横浜校舎チャペルを会場に行われるクリスマスの礼拝に職員が心備えをするということです。クリスマスとは何か。アドヴェントとは何か。保育者は子どもたちとどうこの時期を過ごすのか。

1、私は、一昨年、2009年12月11日にやはりこの職員会に出席して「キリスト教の二つの面」というお話をしました。キリスト教には二つの面があって、一つは「教え」ということ。これは学びを重ねることが大事だということ。もう一つは「出会い」ということ。言い換えれば「出会い」の関係の中で生かされるということです。わたしが「情緒障害」の子どもと出会って、どんなに生かされたか、それはわたしのキリスト教生活や保育の生活にとって本質的なことであったとの経験を交えてお話しました。 さて、今日は、その「教えを学ぶこと」「出会いを大切にすること」を、どのようにして具体化し、生活化してゆくか、その理解と営みについてお話をいたします。

2、私たちの生活は、自然のリズムの中にあります。一日があり、一月があり、一年があります。このリズムの中で「教えを学び」「出会いを経験する」ことは、人類の知恵でもありました。その知恵で作られたのが、「教会暦」という暦でした。もちろん、農業者には農業暦があり、仏教には仏教の暦があり、諸々の領域の暦があります。どの国も自分の国の考えで「国民」を教育したいために国家の暦を持っています。独立記念日などです。日本は民主・平和・人権の憲法が太平洋戦争敗戦後作られましたが、その深い底には「天皇の国」という考えがあります。国民の祝日などは、その思想で作られています。

 キリスト教では、その成立からイエスの復活を繰り返し記憶する日曜日を「主の日」(礼拝日)として守り、宗教改革(15世紀)以来の教会は、信仰の教育のためにイエスの誕生「降誕日」を中心にした暦をまとめました。「待降節(アドベント)」を、一年の開始とし、「降誕日(祭)(クリスマス)」「受難節」「復活節(祭)(イースター)」「三位一体主日」などと繰り返す年の暦です。独創的というよりは、ユダヤの農業の収穫祭、歴史の古事を大事にする過越祭やローマの太陽神信仰の冬至祭などが土台になっています。暦はある意味では習俗化したものが根底にありますから、多様な文化の混合があります。どの「暦」も絶対化は出来ません。むしろ、「市民の暦」やそれぞれの「活動団体の暦」も大事にされるべきでしょう。

3、キリスト教はなぜ「クリスマス」と「イースター」を中心にする暦を作ったのでしょうか。それは、キリスト教の信仰にとって大事なのは「出会い」ということだからです。

 人間はそれぞれが、自分本意で、自分中心で相手とぶつかります。これが極端になると、殺人、虐殺、戦争、独裁というようなことになります。本来、人間は助け合って生きて行くべきものでした(自己相対化の視座の必要)。それを「創造者によって造られたものだ」と理解しました。聖書の「被造性信仰」です。しかし、そのようには生きられないで、自分本意の存在であることを「罪(的はずれ)」として自覚しました。が、そこから脱出する力が自力ではありませんでした。その人間の罪と共にあり、それを負い、赦し、贖い、本来の人間への立ち返り(救済)をもたらす方を待望しました。「その方」が神の側からの「恵み」として遣わされ、人間に「出会われた」のだ。実は、それがナザレのイエスであった、というのが聖書の信仰です。イエスは「人となり給ひし神」「人と“出会われた”神」「イエス・キリスト(イエスは救い主)の姿での神」という信仰がもとになってキリスト教が誕生しました。イエスの誕生を覚えるクリスマスは、歴史の中での神が人と「出会われた日」という意味を持っています。それを教会暦は中心に据えたのです。(マスはミサ、カトリックの聖餐式の意味)。そして、西欧文化の地域では、季節の祭りとして祝われています(日本でも習俗化して、教会でもクリスマスをやるのですか、というエピソードまで生まれました)。アドベント(待降節)は、クリスマスの4週前からアドベントクランツ、アドベントカレンダーなどを作って降誕を待つ暦の時です。

4、さて、「出会い」とはなんだろうか。これが分からないと「キリスト教」つまり「神との出会い」「福音」が分かりません。「出会い」とは、コミュニケーション(伝達)が成り立つことです。恋人や心を許せる友人のことを考えてください。「一緒にいること」(人格言語)、「言葉でやり取りすること」(説明言語)「ものを媒介にして心を交わすこと(プレゼントなど)」(象徴言語)。この三つの言語表現の伝達の豊かさが「出会い」です。福音書に「飼い葉桶のなかに寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2:12)とあります。乳飲み子イエスは神の象徴言語なのです。

5、その「出会い」を待つのがアドベントです。「待つ」時間の緊張を味わったことがあるでしょう。親しい友人から何年ぶりかの来訪が約束されました。家の片付け、食事の支度、飛び切り上等な「お酒(ワイン)」。いよいよ駅に迎えに行きます。予定の電車に乗っていません。どうしたのかな。迷ったのかな。乗換え前の路線の「人身事故」かな。次も次も降りてきません。心配です。その待つ気持ちは、友人との関係、「出会い」の喜びを一層大きくします。「来ました。来ました」。

 今年は暗い世の中です。3.11で苦悩の底にいる人達がいます。『野田内閣「原発再稼働」「増税へ一直線」「TPP交渉」「武器輸出禁止3原則の見直し」、つまり「アメリカ追従路線ひた走り」(東京新聞10/25)です。財界にはよくても、格差是正を求め平和を願う庶民、特に保育園に通う、子供たちには厳しい世の中です。貧しいものと共にあるイエスの来臨を心の灯として、待ち望みたいと思います。

6、最初にお読みした聖書箇所はローマの信徒への手紙です。「キリストにつながるものの生活」について、パウロが記したものです。古いユダヤ教(形式になった宗教祭儀)に寄り掛かるのではなく、自己中心、自分の利益、相手を蹴倒す経済至上主義のこの世の生き方に倣わないで、神(イエス)につながり「心を新にして(自分の意志と決意)、自分を変えて戴き(自分の内からはでてこない神の恵みによる自己変革を経て)、自分の持ち場で(子どもに仕えて)ご奉仕をしようという招きです。

種を蒔く人 − 夢を持つ保育者(2012 とつか保育園-3)

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