一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ − 底辺社会を生きる知恵(2011 聖書の集い・パウロ ③)

2011.8.3「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第19回「新約聖書 パウロの言葉から」③
コリントの信徒への手紙 第一 12:1-26

(明治学院教会牧師、健作さん78歳)

 パウロがコリントの街に伝道に入るのは紀元50年頃、第2回伝道旅行の途中でした。イエスがガリラヤの農村で活動したのに比べると、パウロは一貫して都市伝道者でした。

 コリントは当時人口60万の港町でした。ギリシャ半島の先のプロポネソス半島の境界のくびれた所にあり、貿易港であり、繁栄した街でした。アテネが文化都市で、政治的に重要であったのとは性格を異にしました。パウロがこの地を伝道に選んだ理由はなんだったのでしょうか。

 アテネのように政治や学問の街ではなくて商業都市を選んだ理由は彼の生い立ちにあります(フィリピの手紙3章に自らの紹介、使徒言行録9章以下にはルカによる小伝があります)。彼は生粋のユダヤ人で、ユダヤ教の教育を受け、ユダヤ教の側からキリスト教信徒を迫害した者です、その彼が、内面的に、ユダヤ教の原理・律法に行き詰まって改心をしたのです。その辺りは「ローマの信徒の手紙」の前半に彼が「信仰義認論」として展開しています(ローマ3章)。彼の信仰理解の中心は「イエスの十字架の死の逆説的把握」でした。

 アテネの哲学者たちに説教を試みますが見事失敗に終わります(使徒言行録17章)。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(コリント1 1:22-23)

 この逆説が一番受け入れられやすい基盤をもった人たちは、知識人よりも生活者でした。60万都市の、底辺層が対象になりました。彼は後からコリントの教会を振り返ってこう言っています。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しいい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』(エレミヤ 9:22-23)と書いてあるとおりになるためです」(コリント1 1:26-31、新共同訳)

 つまり、その街の底辺層、生活者層に伝道したのです。これらの人たちは、知識人と違いますから、パウロが1年6ヶ月滞在して、去った後に、次々を問題を起こします。それら具体的問題に、懇切丁寧に書いた手紙が「コリントの信徒への手紙 一」です。いろいろ書いてきて、12章では、共同体の在り方を示しています。

 人間の身体が、足や手や目や耳をいう部分から成り立っていて、でも一つの体である事を例にして説いている箇所の、最後の部分が12章26節です。

 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(コリント1 12:26、新共同訳)

 この根底には、イエスの十字架の死の逆説がありますから、これは単なる倫理的教えではありません。受け止め手の主体的真理にならないと意味がないことは彼が一番よく知っています。こんな逆説がみんなにすぐ受け止められて、そこに理想の共同体が生まれるなどと思っているわけではありません。しかし、生活者が「生き抜く知恵」なのです。この事がよく分かっているパウロ自身をはじめ、先達は余計に苦しむでしょう。そのような主体的真理を説くのがパウロの特徴です。

 パウロは他のところでも同じような事を言っています。

 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。(ローマの信徒への手紙12:15-16、新共同訳)

 この言葉は、現代社会を生き抜く知恵にならないでしょうか。

 自由主義経済の競争原理からは出てこない人間の共同性の在り方です。自由主義経済は「貸し借り」の世界です。

 パウロは「借り」が唯一許されるのは「愛」の世界だと、ここでも逆説を説きます。

 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。(ローマ 13:8、新共同訳)

 愛は借りっ放しでもよいのです。その根拠には「神の愛」があるからです。

 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ 5:45、新共同訳)

 とイエスも言われている。底辺社会の助け合いが、どん底で意味をも持つ時、世界の「共同性」の構造が変わって行きます。そういう意味では、現代社会がそのような逆説を日々抱えていないでしょうか。中村哲さんの顔が思い出されます。

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(2011 聖書の集い・パウロ ④)