詩編 137編1-9節
2011.8.28、明治学院教会礼拝説教「聴き手のために」
(単立明治学院教会牧師、78歳)
1.詩編137編の生活の座(この詩が詠まれた時代的背景と状況)は「バビロン捕囚」
紀元前587年、バビロニアの王ネブカドネツァルはエルサレムを陥落させ、イスラエルの指導的な市民を捕囚としてバビロンに連れ去り監禁状態に置きました。
そのことを思い起こし、捕囚から帰還後、生々しい傷跡を省みつつ読まれた詩であるとされます。
彼らはエルサレムでは神殿で楽器を奏でていたレビ人たちです。征服者たちは
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」(詩編 137:3、新共同訳)
と言いながら彼らをなじったのでした。
「シオンの歌」は現在の詩編の46、48、78、84、122編などです。
エルサレム(シオン)神殿の美しさを讃え、神を賛美する歌でした。
「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵み」(詩編 84:11、新共同訳)
と讃えられました。しかし、今その信仰の歌を歌うことが出来ないのです。今までの「信仰の観念性」が崩れたのです。
シオンは永遠(難攻不落)の街と信じられていました。それが覆ったのでした。廃墟、瓦礫、荒廃の都を「思い出すこと」しかできなかったので
「どうして歌うことが出来ようか」(詩編 137:4、新共同訳)
は、神の民が異国に支配されてしまった中では「シオン」の街の主張が出来ないのです。
それを「歌え」というのは、根底にイスラエルの神は無力だということを認めよ、という愚弄だったのです。ヤハウェ信仰の無力さ、バビロンの神々への屈従を意味していたのです。
ここにヤハウェ信仰の捉え直しの問題がありました。捕囚はヤハウェによる、イスラエルへの処罰であったこと、諸国はヤハウェによる懲らしめの道具であったことを宣言することでこの出来事を克復しました。
イザヤ書 10章5-10節の「私の怒りの鞭となるアッシリア(イザヤ 10:5)」という言葉が思い出されました。
2.エルサレムの記憶
語り手は、エルサレム神殿の”礼拝に中心を置く生き方”の(意味に転換する)記憶を忘れることがないよう、その意味でエルサレムを忘却することがないようにとの意味に理解する。そこに中心を置く生き方のへの模索がなされています。
3.7-9節は一つの祈り
「覚える、思う」がキーワード。エルサレムを滅ぼしたバビロニアやエドムを神に思い起こしてもらうこと。主が全ての国に正義を分け与えることを望み見ています。バビロニアとエドムはその報いを受けることを確信する。これは預言者的な諸国への審きの託宣の文脈である。さらに「聖書全体の中でも最も衝撃的な言葉をもって閉じられます。
娘バビロンよ、破壊者よ
いかに幸いなことか
お前がわたしたちにした仕打ちを
お前に仕返す者
お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は。
(詩編137編8-9、新共同訳)
「いかに幸いなことか。お前の幼子を捕えて岩にたたきつける者は」
いったい誰が罪もない子どもを殺すことによって「幸い」になれるでしょうか。シオンを許容しない世界すなわちバビロニアは破滅すべきだと言っている趣旨ですが、いくら残忍であった時代においても赦しがたい表現です。