十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト(2011 聖書の集い・パウロ ②)

2011.7.27「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第18回「新約聖書 パウロの言葉から」②
ガラテヤ信徒への手紙 3章1節-6節

(明治学院教会牧師、健作さん77歳)

1.十字架につけられたキリスト

 パウロは「十字架につけられたキリストを宣べ伝えている」ということをコリント第一の1章23節で、また「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」とコリント第一の2章2節で言っています。

 今日選んだガラテヤ 3章1節でも「十字架につけられたキリスト」という表現を使っています。

ガラテヤ信徒への手紙 3:1、新共同訳

ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。

 彼が「十字架につけられたキリスト」という場合一つの特徴があります。今日は、その特徴を学んでおきます。

 ここの3か所の「つけられた」という表現の動詞はいわゆる過去の動作を示す過去形(アオリスト)ではなくて、わざわざ現在完了形の分詞を使っています。

 それは「今なお十字架につけられたままでおられるキリスト」という意味です。文語訳の聖書は「給ひしままなる」と訳していますから正確です。

 もし歴史的事実を表現すれば、「十字架につけられた」は過去形で書かれるべきです。ですから彼にとっては過去のイエスの事実ではないのです。パウロはこの表現で彼が把握している、イエスの生涯の意味を表現しています。

 十字架という屈辱的死を遂げたこの人の意味は「今でも十字架につけられっぱなしである」ということです。これは、パウロがイエスに「出会っていること」の本質的部分を語っています。

 パウロは、自分の「肉体のとげ」(私を打つサタンの使い)を離れ去らせてくださるようにと主に三度祈りました。その時「主」から与えられた言葉は「私の恵みはあなたに対して十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント第二 12:9、新共同訳)と。

 パウロは「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように。むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。……わたしは弱い時にこそ強いからです」(コリント第二、12:9-10、新共同訳)と言っています。

「わたしの」は原文にはありませんから、そもそも力は弱さに十分発揮されるという逆説を語っています。パウロにとってはこの逆説を語る主体が「復活のキリスト」でありました。復活のキリストは「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」を現実のものとして、パウロに関係づけている実質的存在なのです。

 新約聖書学者・ブルトマンは、この関係を「復活は十字架の有意義性だ」という表現をしました。十字架の逆説を成り立たせる根拠の意味です。

 パウロが「キリストを宣べ伝える」という場合、十字架抜きでは語りませんでした。「十字架に付けられ給ひしままなるキリストを宣べ伝える」ことが「キリストを語る」ことでした。

 このことは、パウロ自身が、もっとも弱いままで(四方から苦しめられても行き詰まらず:コリント第二 4:8)、なお生かされているということの証しを語っていることと同時的な出来事です。

 パウロを理解するには、この「逆説」を理解することが大事です。その意味で「十字架につけられ給ひしままなる」の表現はパウロ理解に大事な表現です。

2.ガラテヤの信徒への手紙

 パウロは第二伝道旅行の時、ガラテヤに伝道し教会ができました。

 ところが、パウロが去ったあと、エルサレム教会のユダヤ主義者が入り込み、パウロの使徒性を批判し、信仰者は割礼を受け、律法を守らねば真の救いを得られないと説いたのです。ガラテヤの教会の人々はそれになびいて行きました。これは、パウロの信仰理解を真っ向から否定するものでした。パウロがユダヤ教から「転向・改宗」したのは、律法の業の実行では救いに至ることは出来ないという事でした。

 イエスの生涯、その十字架の死の出来事に、神の業を見て、その出来事の恵みを、また神の「信」を、知って、その「信」に依り頼む「信仰義認」のみが、律法の限界を超える救いである、とのメッセージでガラテヤ教会を起こしたのです。

 しかるに、それを覆すとはこれ何事ぞ、と激怒の書簡を書きました。これが「ガラテヤの信徒への手紙」です。その精神をよくあらわした語句が「十字架につけられ給ひししままなる」の言葉です。

3.現代の文脈でここを読みます。

 一つの読み方ですが、核兵器・原発の犠牲者には、この「ままなるキリスト」が重ならないでしょうか。

「死の灰」(核廃棄物)の処理不可能、という一事をとっても、そのエネルギーの延長線上の生活は、核の死者の犠牲を無視し、その上に成り立っています。

 人類の命の可能性はその「死」を自覚し「死に続けている存在」として「忘却することなく」「無に帰すること無きために」、その死と共存しつつ「核廃絶・脱原発」を実現して行く生き方を選ばねばならないと信じる。

 (サイト記)この聖書の集い開催日は2011年7月。東日本大震災・福島原発事故から4ヶ月後である。

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(2011 聖書の集い・パウロ ③)