2011.7.24、明治学院教会(239)
(明治学院教会牧師6年目、牧会52年、健作さん77歳)
詩編 51:1-21
1.今日は詩編51編です。
その真意をお伝えできるか、恐れと慄(おのの)きを覚えます。
これは、古くから教会で重視されてきた「7つの懺悔詩(悔い改めの詩:6, 32, 38, 51, 102, 130, 143編)」の中心的な詩です。
”真の悔い改めの本質を示し…罪の深さがぎりぎりの真剣さで認識され、赦しと真の神との交わりに至る道が示されている。”(A.ワイザー)。
ここには、祈り手の外面の苦難は語られず、内面的心の苦しみ、どこまでも神との隔絶の苦悩(罪の認識)が問題にされる。
歴史的物語、ダビデがバト•シェバに犯した罪(サムエル記下 11-12章)と重ねて読む読みは、真実味があるが、後代の読み。
人間は倫理的責任を負う存在である。(例えば、隣人を愛すること)
しかし、その同じ人間がその責任を負いきれない存在であり、矛盾が露呈される。
この主体の分裂が普通は深く自覚されないで誤魔化されている。
それを「罪、不義、咎」として神の前に徹底して自覚したことの「告白」がこの詩人の表白である。(参照:ローマ 7:24)
ここに出てくる「罪、不義、咎」は、何か倫理的な意味ではない。
神との関係の無自覚、神との関係の自分の側からの切断、神との関係への積極的無視。
強いて言えば、「咎」は神からの背き、意志的叛逆、「不義」は暗い心の状態、「罪」はここの誡命を守ることのできないことというべきか(関根)。
(サイト記:上記、また以下、関根正雄氏の著書からの引用があるが出典不明)
”罪は本来神との関係であり、神が私を審枯れる時に、神の正しさ、清さが本当に示され、罪が分かる。”(関根 p.84)
”罪とは、神に逆らう人間の意思の根本的に倒錯した方向である。”(A.ワイザー)
現代の言葉で言えば、「神」を問題にしないで平然としておれる、人間の自己完結の在り方を「罪」というべきであろう。
自己完結者はその姿を自ら認識できない。
「あなたによって砕かれたこの骨」(詩編51:10)という認識と「その骨が喜び踊るように」(51:10)の表現は二つの事柄が背理でありながら、一つの出来事として認識されているところに、この詩のメッセージがある。
”喜び祝う声を聞かせてください。あなたによって砕かれたこの骨が喜び踊るように。”(詩編 51:10、新共同訳)
平たく言えば「罪」は恵みの中で、知られ、言い表されるのであって「罪の告白」だけが一人歩きするのではない。
その意味で「罪の告白」は神の圧倒的恵みの行為における、人の応答なのである。
この詩に「放蕩息子」(ルカ 15:11-32)の話がよく重ね合わされる。
父の赦しの物語だからである。
2.詩の文学的構造。
20−21節は後代の付加(祭儀の肯定がある)。
① 3−4節、導入であると同時に、訴え、憐れみを乞うことを赦す神の働きが前提されている。
② 5-8節、罪認識と告白。原罪の教理に引用される。
③ 9-11節、ヒソプは浄めの儀式に用いる芳香植物。
④ 12-14節、信仰再興の嘆願。神の創造(”バーラ”、創世記 1:1)に、心と霊を委ねる。
⑤ 15-17節、伝道と讃美への献身の祈り。「流血の災い」解釈が二分、詩人自らの過去の罪。詩人が生命を脅かされている危険。死ねば神への讃美の機会は失われる。
⑥ 18-19節、祭儀批判、捕囚以前の預言者の精神(アモス)を語る。
⑦ 20-21節、加筆が祭儀を肯定する。
3.レンブラントの最晩年の作品『放蕩息子の帰郷』はひたすらの赦しを語っている。
Return of the Prodigal Son(こちら “Google Arts & Culture” で画像を拡大してご覧いただけます)
レンブラント・ファン・レイン1663 – 1665
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