「福音書のイエスの言葉から」⑩
2011年6月22日、湘南とつかYMCA
「現代社会に生きる聖書の言葉」第16回
(健作さん 77歳、明治学院教会牧師)
マタイによる福音書 6:25-34
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書 6:34、新共同訳)
1.今日の一句はイエスの言葉である。ユダヤ教には知恵文学(旧約聖書の「箴言」などの格言や文学や詩の作品)があり、イエスの言葉もそれと同じように小さな断片伝承として語り伝えられてきた。それが、言葉を重んじる初期の教団(「Q教団」と学者は名付ける)によって「語録」としてまとめられたものが、さらに最終的にはマタイ、ルカの編集により「福音書」として伝えられた。それらの言葉集の中の一句である。
「一日の苦労……」の言葉も元来イエスがどのような状況で語ったかは分からない。生活上の諺(ことわざ)に類するものは、ユダヤ教のラビ(教師)やギリシアやローマの賢者の中にもたくさんあり、類似した言葉が見いだされる。「明日のことを心配するな……」は、バビロニアのタルムードに驚くほど似た言葉があるという。
2.「一日の苦労……」はマタイ福音書にだけ伝承されている。
「思い煩うな」の一連の箇所はルカでは12章22節−32節にもある。趣旨からいえば、新約聖書ではパウロの書簡にも同じ意味の言葉はある。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ 4:6-7、新共同訳)。
だが、マタイが伝えるイエスの「一日の苦労は……」の言葉は、心に残る。
パウロの言葉が「神学的」であるといえば、マタイのイエスの言葉は「文学的」である。格言的であると同時にこの言葉の文学性が人の心を引き付けるのではないか。
かつて文学者・椎名麟三はこの「一日の苦労」という言葉に限り無く重い日常性を読みつつ、同時に「その日一日」という限り無い限定を読み取り、死と生のどちらもほんとうであることを言い表した句であるという意味のことを、どこかで言っていたのを思い出す。
3.マタイは、この句の前に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33、新共同訳)を置いている。マタイがつけたこの言葉を一緒に読めば、パウロの言葉と同じように、神学的意味合いが大きくなる。筋道ははっきりする。しかし、イエスが本来それをつけて語ったとは思えない。とすると、「一日の苦労……」は言葉としては格言であり、受け取るものの本意としては、前提の「神に一切を委ねる」という神学的意味が語られていなくとも、イエスという人格を媒介にして、伝わって来る言葉だったのであろう。
客観的格言として力を持つ言葉ではなく、イエスの人格・振る舞いを媒介として伝わってくる力と真理を語っているのではないか。この言葉は、それゆえ、個別人格的であり、逆説的であり、根源的である。
振り切っても振り切っても、まつわりつく「一日の苦労」をそれ相応に担い、うちひしがれながらも、その人生に永遠の軽やかさが失われないことを「その日一日」という限定で表現したのではないか。
椎名流にいえば、苦労という重さがあるということもほんとうである。また、その重さが絶対的なものではないということもほんとうである、ということか。
死と生の二重性、神学的に表現すれば、イエスが十字架で死に続けていることもほんとうであるが、イエスが今も生き続けていること(復活)もほんとうである。このことを日常に引き込んだ言葉であろう。
今日一日の苦労を避けて通らない、意志的な、積極的な気持ちで、与えられた一日を迎えたい。

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。− 愛は疾走する
(2011 聖書の集い・パウロの言葉 ①)