人が安息日のためにあるのではない − 主体性を奪われてはならない(2011 聖書の集い・イエスの言葉 ⑨)

 安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(マルコによる福音書 2:27、新共同訳)

「福音書のイエスの言葉から」⑨
2011.6.15、湘南とつかYMCA「現代社会に生きる聖書の言葉」第15回

(健作さん 77歳、明治学院教会牧師)

マルコによる福音書 2:23-3:6

1.安息日の語源はヘブル語のサーバート(sabbath)。ドイツ語・英語でもそれをそのまま音訳してSabbat、Sabbathという。一週7日の最後の日、すなわち7日目という意味。これは数字の7・セバ(seba)に由来するのではなく、この日に仕事を「休む」という動詞(sabat)に由来する。7日目には種蒔きや刈り入れも休まなければならない(出エジプト 34:21、23:12)、この日には商売もしてはならない(アモス 8:5)。これはイスラエルのカナン定着の初期のきまり、あるいはモーセ時代から守られてきたと考えられる。

 聖書にはその起源と考えられるものが二つある。

 第一は、申命記 5:14-15。出エジプトの救いの歴史を覚えて、奴隷も寄留者も家畜も仕事を休む。

 第二は、出エジプト 20:11による。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エジプト 20:11、新共同訳)(参照:創世期 2:2-3、後代祭司資料)。

 捕囚以後、神殿が破壊されて(BC.583)安息日は残された唯一の祭儀となった。

 この日の禁止行為は厳格を極めた。商売をする事(イザ58:13)、荷物を運ぶ事(エレ17:21-22)、火をたくこと(出35:3)、後パリサイ派はベッドを運ぶ事、いやすこと、麦の穂を摘むこと(労働)、許された距離以上に歩く事(使徒1:12)。

 イエスは、安息日それ自体を否定しなかったが、その偏狭な律法主義を厳しく批判した。隣人への愛を律法を守る事の義務に優先させた。その事の意味が今日の箇所にはある。

2.マルコ 2:25節以下は、ダビデの故事。サムエル記上 21:2-7にある。

 ダビデが王サウルの反感を買い、敵意を抱いた王から逃れる時の出来事である。祭司アヒメレクの元に寄り、パンを求めた、普通のパンがなかったので、祭壇に備えた特別のパンをアヒメレクは決まりを破って、ダビデとやがて落ち合うことになっていた従者たちにも与えたという出来事を言う。

 旧約では「アヒメレク」となっているのに、マルコは「アビアタル」と記す。「アビアタル」はアヒメレクの子であり、やはり祭司となった(サム上22:20)。

 27−28節は、独立の伝承句。

 イエスの言葉の前に、状況を示す物語(麦の穂)をつける手法は「アポフテグマ」(元来ギリシャ文学で、聖者の言葉を中心にして描く、一つの特徴ある文学的手法)といって、新約学者ブルトマンによって、イエスの物語に適用された。

 マタイは「弟子が空腹だった」と麦の穂摘みを例外として正当化する文言を付加する。マタイの教団はイエスの言葉を後退させた。28節は「人の子」のキリスト論的尊称で権威づけられた言葉の感があるので、これも後代の付加であろう。27節がイエスの激しい律法批判の言葉となる。

3.人間の主体性と自由を阻むものに対する厳しい批判をこの言葉に読む。

 さしずめ現代でいえばどのような文脈で受け取ったらよいのか。

 安息日のところにいろいろ入れてみてはどうだろう。

「人が政治のためにあるのではない」。どのような政策にしろそこで人間が損なわれてはならない。建て前は福祉尊重のように見せて、実は福祉切り捨てというような。

 温暖化防止といって、地球規模の救いの実現のようなことを言いながら、実は電力会社と原子力産業大手とそこに群がる利権屋が大儲けという偽の構造を、破っていく言葉としても、このイエスの言葉が生きることを願う。

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(2011 聖書の集い・イエスの言葉 ⑩)

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