わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない − 秩序の平和に安住するなかれ(2011 聖書の集い・イエスの言葉 ⑥)

 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。(マタイ 10:34、新共同訳)

「福音書のイエスの言葉から」⑥
2011.4.27、湘南とつかYMCA「現代社会に生きる聖書の言葉」第12回

(健作さん 77歳、明治学院教会牧師)

マタイ 10:34-39

1.「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)を聞き慣れた人には引用の言葉は違和感を感じさせます。どちらがほんとうなのでしょうか。

 福音書のイエスの治癒物語では、最後に「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(マルコ 5:19、新共同訳)というように、癒された者への家族の元への「帰還命令」が記されています。

 これは、病気で苦しんでいる人々が「家族」からも突き放されていて、どんなに家に帰りたかったかという価値理念にイエスが応えた事を示しています。家族は大事なのです。治癒物語を担って来た人々にとって、家族は人間として「息づける場」なのです。

2.ところが、今日取り上げたイエスの一群の言葉は、奇跡物語とは逆で、家族同胞関係からの離脱を勧める言葉です。例えば、マタイ8:21-22(ルカ 9:59-60)は、「死人を葬る事は、死人に任せておくが良い(死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。新共同訳)」とあります。

 マタイ 10:37「わたしよりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。(新共同訳)」と、家族からに離脱が勧められています。

 このような言葉を伝承として担ってきた人々は、治癒物語の担い手とは異なっています。言葉を使う階層、どちらかと言えば都市型の小市民層で知識階層の人々であると言われています。

 もともと、ユダヤ教のラビ(教師)文献には、たくさんの諺や格言があります。これらを大事にしてきた人々はずーっと存在してきました。古い格言により、彼らは自分の生活体験に新しい意味づけをして、自らの生きる理念を意義付け出来る能力を持った階層でした。このような人々が、自分達だけの階層や、閉ざされた社会関係の中に安住して、そこからはみ出した人々、例えば、治癒物語の中に出てくる、抑圧され、貧しく、孤立化させられた人々に目を開くことのない人々に、イエスは警鐘をならしているのです。

 現実の社会秩序を突き崩す様な「家族的同胞関係からの離脱」を命じる発言がそれです。

3.「平和」を秩序として考えれば、当時は、ローマ帝国の権力が行き渡っていて、「ローマの平和 “Pax Romana”」が厳然としていた訳です。そこへ「剣を投げ込む」という爆弾発言を行い問題提起をしているのです。

 家族は、人間関係の最も基礎的関係です。それが「ローマの平和」を根底から補完して支えていたのです。それが崩れなければ「神の支配(神の国)」の拠点は実現しない事をイエスは見抜いておられたのです。

 ですから、一方で、家族から疎外された病気の人を「家族」こそ人間性の回復の場である事を思い起こさせ、他方で言葉としては全く逆の事を言っています。

 しかし、それは「神の支配」の指示に他なりません。一方で「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ 5:9、新共同訳)との招きを語り、他方で「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイ 10:34、新共同訳)と一見逆のことを述べています。

4.「フクシマ」以後、日本はあらためて、価値観の闘いの時代に入りました。非常に明確な価値観の闘いです。「原発か・脱原発か」の鮮明な闘いです。原発による平和か、脱原発への剣か、「剣」をもって切り崩してゆかなければ、フクシマ以後の世界は第二、第三のフクシマを引き起こす事になります。

「原発による平和の秩序」は強力な、権力・資金力・情報力・人力によって保たれています。

「剣」を振るうという比喩で、自らを語るイエスの姿に圧倒されます。

 そこには「十字架の死」を介した闘いがあります。しかし、歴史は、その十字架の死によってこそ、人間疎外からの救いがもたらされています。

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(2011 聖書の集い・イエスの言葉 ⑦)

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