「東日本大震災」後、複眼の運動を(2011 震災・沖縄・脱原発)

 2011.5.8、掲載誌不明

(明治学院教会牧師、健作さん77歳)

 3月11日、鎌倉の古い木造家屋が激しい横揺れにさらされ、思わず家の外に飛び出しました。

 16年前の神戸市中央区で阪神淡路大震災にまともに出合い、ありったけの力を絞って救援活動に首を突っ込み、今でも精神的に関わり続けているあの体験が一度にフラッシュバックしてしまいました。

 そこには「復興」への過程を『これは「人間の国」か』(筑摩書房 1998)と作家の小田実氏が批判した様に、国・行政の復興原理の根本が新自由主義経済優先で、それとの熾烈な闘いが救援活動だったのです。

 我々神戸では、俗に「神戸市株式会社」方式と言われた原理です。

 日本の近代には国全体の国是としての「富国強兵」の考えが明治以来、政治・経済の主流にあり、それは1945年の敗戦後も変わることなき価値観でした。

 経済成長優先・安保体制堅持であの阪神大地震を迎えました。『地震は貧困に襲いかかる −「阪神・淡路大震災」死者6437人の叫び』(いのうえせつこ著、花伝社 2005)が述べているように、襲われた貧困者をどう救援するかがあの時の闘いでした。

 しかし、神戸の復興は、市営「神戸空港」の建設が3,400億円で続行され、それを支持する市長選挙では、「まず人間の国を」といった市民派は22万票対27万票で「あちら」側に破れました。

 弱者が自らの命を守る運動は今もって苦戦を強いられています。しかし「あちら」側の「復興」の虚構性、破綻は明らかです。「空港」の廃止がこともあろうに関西財界から提言されているのが現状です。しかし、そこを崩せなかった「我が身」の悔いが尾をひいています。

 この度の「東日本大震災」ではそうであってはならないとの思いを強く抱きます。阪神とはことなる桁外れの規模の地震に加えて、巨大な津波です。

 筆舌につくし難い犠牲の死者・行方不明者に哀悼を表し、被災者の個別の苦難に痛みを禁じ得ません。しかも、価値観の闘いは、それに加えて人災の「原発」がのしかかりました。

 かつて『原発への警鐘』(講談社文庫 1986)を著した内橋克人氏は、この度の「福島原発」事故について、原子力産業を推進してきた利権企業、さらにそれに「もたれ合い構造」で「原発安全神話」の浸透をさせてきた、政府機関、御用研究者・学者たち、特に広告料でジャーナリズムの独立をかなぐり捨てているマスメディアの総体がこのような悲惨な人災の責任者であることを、名を挙げて厳しく指摘しています。

 政策、情報、世論操作すべてが「あちら」側の力づくです。

 日本の近代を覆う巨大な価値観との闘いの正念場が「東日本大震災」との対峙です。

 このどさくさに、沖縄の辺野古に「日米合意」の基地を作らせてはなりません。本土がほとんど動かない「反基地」の沖縄との闘いとも連動させて、今世界を覆うアメリカ版「新富国強兵」の価値観と根底から闘うことが我々の課題です。

 当面の局面は「被災弱者救援」「沖縄に基地を作らせない」「脱原発」の基本線からぶれないで、一つ一つの運動のバリエーションを生きることではないでしょうか。

十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」(ガラテヤ3:1)を凝視しつつ進もうではありませんか。

 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、誰があなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか。(ガラテヤ 3:1、新共同訳)

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