九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで − ”ひとり”の重さ(2011 聖書の集い・イエスの言葉 ⑤)

「福音書のイエスの言葉から」⑤
2011年4月20日、東日本大震災から1ヶ月、
湘南とつかYMCA「現代社会に生きる聖書の言葉」第11回

(健作さん 77歳、明治学院教会牧師)

ルカによる福音書 15:1-7(参考:マタイ 18:12-13)

 ”あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。”(ルカによる福音書 15:4、新共同訳)


 これは福音書では「失われた羊のたとえ」として出てくる有名な話である。ルカとマタイに並行記事がある。このお話は、ルカとマタイでは3つの点で異なっている。

① まず、一匹を「迷い出た」とマタイは記す。ルカは「見失った」を記述する。

「迷い出た」は「迷った者」へのマイナス評価である。「見失う」は羊飼い(管理者)の責任という見方である。実際に羊は百匹の群れから外れたわけであるが、それをどのような視点で見るかで、このお話の意味は全く変わってくる。イエスの原意はどういうたとえであったのか。

② 次に、マタイは「九十九匹を山に残しておいて」となっているが、ルカは「九十九匹を野原に残して」となっている。研究者の意見を手掛かりにすると、「山」は「エルサレムの山(エルサレムは高いところにある)」を意味し、神殿のあるところ、聖域。そこが救いのあるところ、安全な場所の意味を表しているという。一方「野原」、原語ではエレーモスで「荒野、人里離れたところ」の意味で、危ないところ、不安のあるところ、の意味である。

 どちらが、イエスの原意に近いかについて、研究者たちの意見は、ルカを指摘する。なぜなら「貧しい人は幸いである」という言葉のように、イエスの言葉には常に「逆説」が含まれている。つまり、九十九匹を安全なところに確保しておいて一匹を捜しにゆくのではなく、九十九匹も、原野で不安な状態を経験することで、どこにいるか分からない一匹と「不安」を共有することが、暗示されている。

 ここから察するに、イエスの原意は、多数(マジョリティー)とは違って多数者からは「見失われている」少数(マイノリティー)、つまり、いつも危険・不安に晒されている少数者の存在が視野にある。

 全体が即多数者で、安心・安全だと思ってはいけない。野獣の出る危険な「荒野」の自覚をもつことが大事だ。少数者との関わりで、自分達を自覚しなければならない。その自覚が、少数者との繋がりを作る。「見つけたら」とは、この「繋がり」の意味ではないか。喜びはそこにある。マタイは迷える者の帰還を喜びとするが、これは多数者だけの喜びではないか。

③ さて、各福音書は、自分の結論をこの話に勝手につけて「お説教」にしてしまった。ルカ福音書は15章7節で「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(新共同訳)」という結論をつけた。ルカの教会では改心者を喜ぶ教会の実情を示している。「悔い改め」を強調するのはルカの思想の特徴であるが、その文脈でこの話は用いられる。

 マタイは18章14節で「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。(新共同訳)」と結論づけることによって、教会からの脱落者(いと小さき者)への関心を呼び覚ましている。マタイの教会には多数者が少数者を顧みない趨勢があったとすれば憂うべきことであった。

 わたしたちは、現代の文脈で「失われた一匹」の視点から、人間や社会への視点を培いたい。イエスに従って生きるとは、その視点を失わないということである。

「神の愛」がすべての人に注がれている、という現実を生きるとは、わたしたちの目には失われているが、現実には存在し、その存在のゆえに目を開かれ、だれにでも注がれている「神の愛」が受け止められるようになるのではないか。

 飛躍するが、今度の「東日本大震災」で「原発」でだれが大もうけをしているか、「原発安全神話」を生み出し(また呑み込まれ)てきた責任はだれにあるか、「犠牲」にならねばならない少数者がだれなのか、少し見えて来た気がする。

「失われた一匹」とはだれか。この課題を負って生きたい。

 

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(2011 聖書の集い・イエスの言葉 ⑥)

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