あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり(マルコによる福音書 10:43、新共同訳)
「福音書のイエスの言葉から」④
2011年3月23日、東日本大震災から12日目
湘南とつかYMCA「現代社会に生きる聖書の言葉」第10回
(健作さん 77歳、明治学院教会牧師)
マルコ 10:42-45
1.マルコ福音書という書物
K保育園の礼拝に月1回お話に行っています。その礼拝では「聖書は神の言葉…」という幼児讚美歌を必ず歌います。
大きくなって、聖書を人生の力や慰めにして生きることができたら素晴らしいと思います。幼い時にそのような考え方や生活を身につけることは、とても大事なことだと思って一緒に歌います。
でも、そこには気をつけなければならない落とし穴があります。聖書の一字一句が「神の言葉」だと考えると、きっと大きくなって知性や理性の生活が整ってくると躓くでしょう。
なぜなら、聖書は古代の書物で、古代の世界観(神話)をその時代の衣としていますから、現代人から見ればたくさんの矛盾を持っているからです。でも、なおその衣の中には現代人が自分を糺(ただ)して行く「言葉の力」が含まれています。
難しい表現をすると現代人に自らの「自分本位」や「自己中」を気付かせ、それを(悔い)改めて行く「他者性(神の言葉)」を聞き取って生きた人達の記録が記されているからです。
その意味で聖書は人間の内側からは出てこない言葉を宿しています。
つまり自分にとって都合のよい言葉、自分の正当性を補う言葉ではなくて、自分の「自己中」を糺す「他者性」として迫る気迫に満ちた言葉として存在し続けるのです。だから「聖書は神の言葉」なのです。
ところが、聖書を生み出した人々の「神の言葉との格闘」の様子ではなくて、簡潔に「メッセージ」として纏めてしまったのが、初代の教会の指導者、そしてパウロのメッセージの伝え方でした。
パウロの書簡やその後の書簡は、その面が前面に強く出ているので、後の時代の教会も「神の言葉」を纏まりのある文書として伝えました。小包のように纏められたメッセージです(package message)。
その書簡類より遅い時代の「マルコによる福音書」は、それではいけないという批判精神に基づき、イエスの生きた歴史の中で、弟子達はイエスを誤解し、イエスに躓いた、という葛藤の歴史まで含めて伝える「文学・福音書」として、書かれました。
2.マルコ福音書 10章42-45節
今日の箇所は、イエスに従うといって付いてきた弟子達がイエスに如何に無理解であったか、ローマ帝国の権力者と同じように「偉くなりたい」という自分中心の生き方・権力的生き方と同じではないか、とイエスが弟子をたしなめている箇所です。
イエスは弟子に僕(ドゥーロス「奴隷」)になれ、と命じます。イエス(人の子)は上下関係で言えば、仕えられる人ではなく、仕える人になるために来たのだ、と伝えます。
当時の教会では「身代金(奴隷を買い戻す代金)」といえばパウロの「我らの罪のための贖罪(あがない)」(コリント第一 15:3)として理解された信仰が定着していたので、それが内容を伴わない実態に対して、「あがない」の趣旨は「仕える」事なのだと念を押しているのが、最後の句である、という解釈に私は賛成します。
さて、現代の社会の在り方は、一方の極で「権力の支配」が行われている。権力は武力を伴った体制である。しかし、一方の極で、格差の極みのどん底から「仕える」人々によってはじめて息づいている社会(人間関係)がある。社会的力学、また個人の内面的意識では、その両極の引力に引っ張られて、生きている。イエスの言葉は、一方の極の極みから、言葉そのものが力を持って響いてくる。「仕える者になれ」とはどんなに割引してもイエスの十字架の死に裏付けされた言葉の重さがある。現代社会に鋭く響く言葉である。この言葉で重心を少しでもイエスの側に寄せたい。
3.仕える者になれ
この言葉は、途方もなく巨大な「東日本大震災」の文脈でまた新たな響きを持たないであろうか。
被災者・非被災者の関係の支援構造ではなく、地震は「貧困者」をより大きく襲うという権力構造への視点をしっかり持って「仕えること」の意味を探りつつ支援活動に繋がりたい。
原発に寄り掛かるエネルギー政策は人間の破壊に繋がる、という洞察を深く持った「仕え方」を模索したい。
東日本大震災を経験した国から「原発には頼らない・核廃絶」の発信ができるような仕え方をしたい。
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