あの若い精神を(2010 出会い・此春寮)

2010.8.24執筆、同志社此春寮時代(1952-53年)
(寮母)砂野文枝さん回想

リーン、リーン、リーン。

 電話が鳴った。

「岩井です」

「……です」。最近とみに耳が遠くなった。「どちら様ですか?」

「……です。」「どちら様ですか?」

「笠・原・芳・光・です」
「いやこれはとんだ失礼をいたしました」

「『此・春・寮(ししゅんりょう)』の寮母さんの名前を教えてくれませんか?」
「い・さ・の・ふ・み・え。砂・野・文・枝さんです」

「8末までに一文を草しなければならないのでね……。神戸に出てくる機会はありませんか?」
 久々こんな会話をした。

 僕が笠原さんに初めて出会ったのはその「此春寮(ししゅんりょう)」だった。丸坊主で高校を出て、同志社の神学部へ入学、1952年の春、入寮したての時である。笠原さんは4年上の先輩になる。

 彼もあの年、様々な出会いを求めて入寮されたような気がする。部屋の扉に「青春無限」と白墨で大書してあったのを覚えている。

 赤岩栄さんの『指』(58号)を紹介されたり、彼の蘊蓄の深い文学、思想、哲学などからは影響を受けた。彼は宗教思想史を大学で究め、キリスト教止揚の道を、僕は「社会派」の牧師の道を、それでもつかず離れず歩んできた。僕の此春寮での生活は2年間だけだった。新設の岩倉の壮図寮に籤引きで移った。

 こんな青春の出会いの舞台の影で、ドラマの推進役を務めていたのが「砂野文枝」さんだった。大勢の個性ある寮生を一人一人よく観ていたと思う。

 砂野さんの葬儀のあと前田良典さんから手紙を戴いた。神戸教会で洗礼を受け「岩井牧師さん」といって慕ってくださった宮地和子さんを教会に紹介してくださった背後には、砂野文枝さんの「推薦、紹介、助言」があった事を知らされて、砂野さんがそこまで僕を観ていたことを思うと、涙が込み上げて仕方がなかった。

 その経緯は『ママチンとともに − 砂野文枝さん近況報告・野辺の送り全記録』(2010)に記録して戴いた(102-106頁)。あの当時、寮では砂野文枝さんの助手の「淑子ちゃん」が名コンビとして働いていた。情報通の和子さんのお連れ合い宮地洋二さんから「田中淑子さん」は逗子の教会にいると知らされ、牧師に連絡を取ったら、すでに少し以前に他界された事を知らされた。哀悼の思いを深くし、益々あの時代への追憶を募らせた。

 戦後民主主義の世代として、僕は、旧左翼・新左翼とは市民運動の広がりを含めて、あいまいながらお付き合いをしてきた。しかし、セクトとは瀬戸際の関わりで歩んできた。砂野文枝さんはおそらく、最も激しい時代に、セクトまでも含めて、いやそれを超えて、権力を批判し、戦う若き魂と共に生きたのではないか。もちろん教会を内に抱えての事であった。そこには背景としてのリベラルな同志社があったと思う。

 政治もキリスト教も、硬直化の時代にあって、あの若い「ママさん」の精神を受け継いでゆきたい。

岩井健作(日本基督教団教師、単立明治学院教会牧師、鎌倉在住)

此春寮(ししゅんりょう)寮歌」(作詞 金田義国、作曲 西田晃)

1.遍(あまね)く地より集い来て
  神を見上げる 若人の
  その意気高く 谺(こだま)せん 
  ああ我が 同志社 此春寮

2.互いに努めいそしみて
  友と交わり 喜びの
  心に満ちて 進みゆかん
  ああ我が 同志社 此春寮

3.憂い苦しみ分かち合い
  共にいたわり祈りつく
  正しく強く 生きぬかん
  ああ我が 同志社 此春寮

アルバム(1952-58 同志社時代)

笠原芳光先生を偲ぶ会へのメッセージ

宗教部 笠原芳光(1984 引用-1)

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