友に対する慈しみ(2010 礼拝説教・ヨブ)

2010.8.29、明治学院教会(201)

(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん77歳)

ヨブ記 6:8-15

憂患にしづむ者は、その友これを憐れむべし。”(ヨブ6:14、文語訳)

1.ヨブはうめき、自らの生を呪う、という事態に対して「友人」エリファズは、自分の人生経験と宗教的知恵を傾けて、ヨブを戒め、諌めた。

 ヨブ記3章から5章までの流れである。

 私たちは、ヨブの側に身を置くとき、うめきを「言葉」にまでしたヨブの生き様を励ましとして受け取った。

 他方、エリファズの側に身を置くとき、現実に呻吟せず「言葉の破れ」を知らない「友人」の虚しさを警告として受け取った。

2.さて、6章から7章は、3章に引き続き、ヨブが発言する。

 友への失望と神への嘆願・抗議である。

 内容の概観。

① 憤りが正しく量られるように(6:1-7)
② 死への願望(6:8-13)
③ 友人への失望(6:14-20)
④ 真実な言葉を語れ(6:21-27)
⑤ 真相に向かう精神(6:28-30)
⑥ 望みのない人生(7:1-6)
⑦ 死を求め、死を恐れる矛盾(7:7-10)
⑧ 魂の息が奪われる願い(7:11-16)
⑨ 徹底的に問題の直中にヨブを追いやる神への凝視(7:17-21) 

3.ここにはまとめきれない幾つものテーマがある。

「友人への批判」に絞って考えてみたい。

 14節は訳が分かれるが、口語訳がわかりやすい。

”その友に対するいつくしみをさし控える者は、全能者を恐れることをすてる。”(ヨブ記 6:14、口語訳 1955)

”絶望している者に、こそ友は忠実であるべきだ。”(ヨブ記 6:14、新共同訳 2009)

 ”友”と”神”は連動している。

「友人」は水を求める隊商を欺く「砂漠の川(ワディ)」に譬えられる。

 川だが、夏の渇水期には水がなくなる。

 私はここで、新約・福音書の一つの譬えを連想する。

「仲間を赦さない家来」(マタイ18:21-35)

 自分は王から1タラントの負債を帳消しされたのに、仲間に対して100デナリの借金の取り立てを苛酷に行い、主君の怒りを買ったという話である。

 王の憐れみに連動しない仲間との関係が厳しく批判されている。

4.「憐れみ(文語訳)・慈しみ(口語訳)・忠実(新共同訳)」は、旧約の基本概念の「へセッド」。

 恵み、変わらない愛、愛情、友情、誠実、真実、憐れみ、等と訳されている。

 元々、内省を伴った誠実な社会的・家族的な絆である。

 背く者をも包む神の基本的態度。

 信仰(神関係)と倫理(人間関係)を別々ではなく、全体として、一体的に捉えた概念。

 ヨブは慈しみのない友人の冷酷さを「神関係」に遡って疑う。が同時に「ヘセッド」を体現している人物への思慕を抱いていた。

 この一句はその現れである。

5.詩編は「慈しみ」を多く用いる。

”わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください。”(詩編 25:7、新共同訳)

 神の慈しみが内にあり続けるために「へセッド」の人間像を求め、慈しみ深く人に関わってゆきたい。

 特に身近な関係で。

 社会的関係は、その延長線上で展開する。

6.以下は『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る ー アフガンとの約束』(澤地久枝・中村哲、岩波書店 2010)の中の一節である。

”どん底の人たちとの密接なふれあい、多くのボランティアや働き手と生活を共にして、中村医師は無類の「人間好き」になったと思われる。”人は愛すべきものであり、真心は信頼するに足る”と一つの結論を胸に、医師は今日もアフガンの空の下、水路の完成に全力をあげている。”(上掲書 p.232)

 現代の「友」に対する慈しみ「へセッド」の人として、中村哲医師を覚えて、力を得たい。



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