散っていった人々(2010 礼拝説教・使徒言行録)

2010.7.11、明治学院教会(197)聖霊降臨節 ⑧

(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん76歳)

使徒言行録 7:54-8:8

1.使徒言行録の7章54節以下は「ステファノの殉教」の記事である。

 使徒言行録の研究者•荒井献氏によれば、ステファノの処刑は、死刑執行権を握っていたローマ当局の正式処刑ではなく、ユダヤにおけるピラトゥスの権勢が揺らいだ紀元31年以降の時期に起こり得た、ユダヤ人暴徒による私刑であるという。

 神の冒涜者を町の外で石打ちにする習慣を示す(民数記 15:35)。

 正規の処刑では「葬り」は禁止されていたが、ここでは「信仰深い人々」(8:2)がそれを行なっている。

 著者の主眼点は、この処刑をイエスの十字架の死の場面を想起させるような模範的殉教死として読者に訴えることであった。

”「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って眠りについた。”(使徒言行録 7:60、新共同訳)

 この祈りは、後世のキリスト教殉教者行伝に影響を与えたという。殉教者の歴史は20世紀ドイツ•ナチズムによるボンヘッファーに至るまで脈々と続く。

 洋画家•小磯良平さんは聖書の挿絵で、この場面を描いている。▶️ ステパノ、石で打たれる(2009 小磯良平 ㉛)

 この絵のどこに自分の立ち位置があるのか。

 微(かす)かに描かれた後ろの群衆の中に自分を見出して唖然とする。

 加担者ばかりとは言い切れない。

 問いかけを絶えず受けている者の姿でもあろう。

 殉教者の問いかけを自分の生き方にかすかに重なる部分に重ね合わせて行くことが、この記事に向き合うことではなかろうか。

 歴史は、永遠の殉教者たちによる「贖い」に与ってこそ、光を見出す。

2.「サウロはステファノの殺害に賛成した」(8:1)。

 サウロがここに居合わせたことには研究者の意見は二分する。

 史実か、あるいは編集作業の結果か。

 ファリサイ派で律法主義者のエリート、キリスト教会迫害の旗手が、後の宣教者パウロに転換するという劇的「使徒物語」を際立たせる編集者の意図がここにサウロを登場させたという「ルカ編集作業」説(荒井献)の方が説得性がある。

3.「さて、散っていった人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」(8:4)。

 ここも二つの解釈がなされてきた。

 一つは、迫害による四散ではなく、「巡り歩く」が「巡回説教者・巡回霊能者」を意味する語彙であり、積極的伝道の始まりと見る。

 他方、注解者W.H.ウィリモン(『現代聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局 1990)が「この皮肉な記述によって、我々は福音伝道への新しい第一歩を踏み出す」と言っているように、「散っていった人々」とは、エルサレムでの迫害(8:1)を避け、ステファノの葬り(8:2)さえもしないで安全圏のサマリア地方に逃げ出した「使徒以外の者」、ギリシア語を使うキリスト者たちと解する。

 私は後者の解釈を取る。

 選ばれた7人(6:5)の一人であったフィリポたちは「エルサレム教会の分裂者」なのである。

 迫害からの逃亡と保身の矛盾と葛藤を内に抱え込んでいたに違いない。

”さて、散っていった人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。”(使徒言行録 8:4-5、新共同訳)

 諺「嘘から出た真実(まこと)」ではないが、逃げ散った人々に福音が委ねられていく。

 ここがいい。

 異邦人伝道はかくして始まった。

 歴史の教会の多くはその延長線上にある。

 大義・明確な目的があって始まったのではない明治学院教会の歩みも、その線上にあると言えなくもない。



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