2009.9.6、明治学院教会(165)聖霊降臨 ⑮
(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん76歳)
アモス 5:4-9、使徒言行録 2:29-36
”あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。”(使徒言行録 2:36、新共同訳)
1.今日の聖書箇所は「ペトロの説教(実は使徒言行録の著者)」の中間部である。
この説教の特質は「神」が主語であること(前回の趣旨)で、復活について「イエスが甦った」のではなく「神がイエスを甦らせた」という理解をする。
ここにルカ文書独特な「救済史観」がある。
今日のところも「イエスを主とし、メシアとなさった」(2:36)という言い方をする。実は「イエスはメシア(キリスト、油注がれた者)である」と「イエスは主(キュリオス)である」という定式は、原始教会ではそれぞれ根源が異なり、紆余曲折を経て定着した特徴のある二つの信条文である。
「主」と「メシア」を軽々と並べられるようなものではない。しかし、著者ルカがあえて併記するのは、その差異よりも、あなたがたは「殺す側」の価値観に立っているが、神は「生かす側」の価値観だという大前提の宣言をしているからである。
2.イエスはローマ帝国支配者にも、ユダヤ当局者にも不都合な存在であったので殺された。
福音書の記事は、ローマ帝国に対する護教的な姿勢で書かれているので、ここではユダヤ人の「犯罪性」だけが取り上げられている。
神が下す審判の火と結びついて、虐げられた者の側からのイエスの憤りが、ローマ帝国・ユダヤ教体制批判であった。
それは根源的に「生かす側」の価値観であった。
3.『反改憲運動通信』(2009年9月2日)に次の記事がある。
「戦争による国土の破壊、農業の荒廃、難民の増大。戦争と占領が平和をもたらさないことは当たり前のことだ。
昨年(2008)8月、アフガニスタンでの農業支援活動に献身していたペシャワール会の伊藤和也さんが殺害されるという悲劇が起こった。
しかし、ペシャワール会の現地代表・中村哲さんはアフガニスタン現地で活動を継続し、確実に大きな成果をあげている。中村さんたちの活動でよみがえった耕作地は「平和への希望」を灯している。
”World Peace Now 実行委員会”は(2009年)9月19日(土)に「武力で平和はつくれない。アフガニスタンに緑と生命を」と題して「ペシャワール会現地報告会」を開催する。中村哲さんの講演が予定されている。」
ここには「殺されても」「武力ではなく」「信義・愛」によって、命がもたらされるという価値観がある。
どちらの価値観に立つか、複雑な現代の問題は、根源的で鮮明な価値観の選択を迫られている。
4.「信条文」は、ある状況で「殺す側」に対抗して「そうではない」ことを表明している。その文言は、状況的意味を持っている。
原始教団では「キュリオス・イエスース(イエスは主なり)」は、ローマの「キュリオス・カエサルス(皇帝は主なり)」との対抗として意味を持った。
そこには迫害の危機があった。
もちろん現在的なイエスに対する「歓呼と宣言」であったことは事実である。
現代のクリスチャンは「主」という表現をよく使う。手紙の冒頭に「栄光在主」、終わりに「主にありて」など記す。
だが、それが闘いの言葉であったことを忘れまい。


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