「望楼」 「ことば」は「からだ」で語るもの

2009.3.28 キリスト新聞

 復活日が近づいてきた。1944年のこの日「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」が教団統理者富田満の名で発表された。戦争協力の罪責を償う意味で67年の「復活主日」には総会議長鈴木正久の名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」が出された。それは深い淵からの懺悔の自覚であった。

 しかし、「告白」は所詮言葉の営みだ。あれから42年。「『ことば』は『からだ』で語るもの」(渡辺英俊著『地べたの神』新教出版社、2005年)と指摘されるような「からだ」がどれだけ育っているだろうか。

 その「からだ」をめぐって、中原真澄氏の言葉が心に残る。彼は、「キリスト教の精神を次の世代に受け継ぐために」という一文(『福音と世界』2009年3月号)で、三つの提案をしている。①体験としての肉体性の回復。②時代の制約下の言葉の相互性。③ミクロな「歴史」の重視。「ここ数年、難病に苦しむ連れ合いを介護し、排泄と摂食(この順序!)に苦闘しつつ日々を共に生きていると、……ミクロな「歴史」こそがガリラヤのイエスの眼差しが捉えた民衆の日常で有り……ここに普遍が」ある、と。「復活の“からだ”」への思考を巡らせたい。(健)