2009.3.26(木)、西宮公同教会、関西神学塾、「岩井健作」の宣教学(58)
関西神学塾 岩井健作
(牧会51年、明治学院教会牧師、健作さん75歳)
1.はじめに
テキスト 北村慈郎著『自立と共生の場としての教会』(新教出版社 2009年、1800円)
▶️ 書評:教会は生きている − 住宅街と寿地区の狭間での教会論
このテキストを取り上げる理由。
今、日本基督教団は、福音理解において真っ二つに割れている。これは、長い眼でみれば、キリスト教の歴史においては原始キリスト教以来の問題である。
例えば、聖書学の領域において「パウロの福音理解」と「マルコの福音理解」における差異といわれている事柄である。それはイエスを「罪の贖いによる救済者(キリスト)」という告白的理解に重きをおくか、歴史における「イエスの出来事」という事件性に重きをおく理解をするか、で「福音」と締めくくられる内容が変わってくる。
現代を例に取れば、ミッシオ・デイ ”MISSIO DEI”(神の宣教)の神学が提示するごとく、「神 → 教会 → 世界」と「福音」の働きを「教会」を第一義に捉えるか、「神 → 世界 → 教会」と「世界」に潜在化・歴史化されている「神の働き」を第一義に捉えるかで「教会」の働きの理解が変わってくる。
大変大ざっぱな言い方をすれば、「福音の伝道」という、明確な救い(罪の贖いとしての福音)への人格的決断を「教会」の働きと考えるか、「共に生きる」という人間存在に匿名化された形の共有への決断を「福音の宣教」と考え、「教会」の使命をそこへの参与と考えるかの違いである。
この両者は明確に分かたれるものではなく、重なる部分への重心をどちらに置くかの差ではあるのだが、今、日本基督教団では、不幸なことに、これが分離強調され、敵意や怨恨の領域までも伴って(イデオロギー的に明確化される程に)共存不可の現実を作り出している。「教会派」「社会派」というような教会や信者へのレッテル張りに役立つ不毛な言葉が流行するなどの現象を生んでいる。
その一角で突出した問題が、「聖餐問題」である。一言でいえば、洗礼を受けている者だけが聖餐式に与かるという立場を固守する伝統的考えと、未受洗者が聖餐式に与かることはその宣教論から当然との考えが、真っ向から対立している。
「許せぬ、除名だ」というところまできている。当然これらは真理問題として神学的対話をする必要はあるのだが、それ以前に政治的対処によって決着を付けるという動きがとみに顕著になってきている。今誰によって権力が握られているかと深く関係している。それは、権力を握った多数派の奢りを含んでいる。その一例が、「北村慈郎牧師への教団教師退任勧告の件」である。これは、教団では焦眉の問題である。
そこに当のご本人からの書物が発行になった。それが、本書選択の前置きである。
2.(この段落は「書評」と同じテキストです)
この本の書評を筆者(岩井)はキリスト教読書雑誌「本のひろば」(近々発行)に依頼された。まずそれを、この書籍の理解の手掛かりにしたい(『教会は生きている―住宅街と寿地区の狭間での教会論』評者・岩井健作)。
(ここから書評本文です)
「契機になったのは一人の『バタヤさん』の死でした」(上掲書 p.113)
本書の通奏低音がここにある。
著者は東京神学大学を出て東京足立区の「足立梅田教会」主任担任教師として赴任する。
寒い冬、回収してきた廃品の山に囲まれ、仕切り屋の長屋の一室で、心不全で冷たくなった「バタヤさん」の体に猫の糞が散乱していた。
洗礼を受けていた死者の葬儀を教会で行う。以来「資本主義社会の中で伝道者として生きるとはどういうことなのか(井上良雄氏の言葉)」といった問いを持ち続ける。
その問いの持続と思想化の軌跡が本書である。
序章の最後で「私は日雇い労働者や野宿労働者の問題に関わっている寿地区センターを支える神奈川教区の寿地区活動委員会の責任を持っているが、日雇い労働者や野宿労働者にとって教会の敷居は高い」(p.8)
と体験からの言葉が記される。この感覚を彼と共有してゆかねば、という内的促しを覚える。
北村さんは、日本基督教団では、今渦中の人である。それは現任の紅葉坂教会で、教会総会の議を経て行っている聖餐式のやり方が「日本基督教団教憲教規」に違反するという事で、教団常議員会の決議で山北宣久議長から「教師退任勧告」を受けているからである。それに対して、まず序章で「問題の所在、今、問題は聖餐なのか?」を問う。
「勧告」の根拠には、第二次大戦時、国家の圧力で成立した「日本基督教団」という良し悪しを含めての「出来事としての教会」の歴史的事態への認識が欠落している。その欠落を鋭く彼は突く。
「開かれた聖餐は、教会の礼拝に集うすべての人と共に、この世で最も小さくされた者のために全存在をささげられたイエスの出来事を想起する教会的行為だ」(p.10)。
問題の所在は教会の在り様そのものだと、彼は一貫して主張する。
それをスローガンとして表現すれば『自立と共生の場としての教会』と書名そのものとなる。そして「あとがき」では「わたし自身のささやかな『現代の教会論』です」と述べ、彼の考え方に対話をもって貢献した御器所教会時代の知友、天上の土岐正策さんが追想される。ある意味でこの書は土岐さんや同時代を「教会」に留まり続けて生きてきた信仰の友への応答であろう。
第一章「自立と共生の場としての教会 出来事としての教会をめざして」
ここに収められた4つの記録は紅葉坂教会に赴任して以来の、教会内の発題・説教である。聖書の教会観(牧会書簡、パウロ、マタイ福音書)が学ばれる。歴代の牧師の考えをたどり、役員会・教会員の参加を促しテーマを共有する。そのことを、北森神学流の「第一義は神と人間の関係」「隣人の問題は第二義」という秩序の把握を批判し、双方を「往還」の関係として捉え、社会学的概念を含めて教会を「自立と共生の場」と表現する。
第二章「教会ってなあに?」
川崎の生田教会での講演の収録。読者はここから読みはじめると分かりやすい。教会を「バラバラの一緒」と表現しているのが印象に残った。
第三章「自分史とのかかわりで」
ここは是非本を求めて読んでほしい。「既成教会を場とすることを自覚的に選ぶ」(p.117)。評者も古い伝統を抱えた教会を所与としつつも、なお選んで生きてきたが、重い言葉である。
第四章「戦責告白・教職論・聖餐論」
5つの論文が並ぶ。本書の骨格になる部分である。①「戦責告白について」、②「教職論・聖餐論について」、この二つは神奈川教区オリエンテ-ション(新任教師のため)の発題。特に②は手堅い手法で、教師検定問題と過渡的教職論に言及した貴重な論文だ。③「聖餐についての個人的体験と―教会の試み」、④「私はサボナローラか? 日本基督教団教師退任勧告を受けて」(共に初出『福音と世界』)、⑤「まだしばらくは『正教師』をつづけていきます」(初出『教会と聖書』)。
読み終わり、是非各個教会で、中堅の方々の学びのためのテキストに用いていただけたらとの願いを切に持つ。「教団・教会」を考える実践的な教会論の書物だ。貧富格差の厳しい時代、貧しくされた者たちにも開かれた教会へとの論理が示唆されるであろう。
(書評本文はここまでです)
3.講演「教会ってなあに?」を読み解くスケッチ
*聖書から、福音書におけるイエスの出来事が第一に(パウロから入らない)。
*この世の価値観・差別から自由な真実な交わりを作る。
*贖罪論はない。イエスの歴史が大事。
*安息日論争はマルコ2章だけに。
*ぶどう園労働者の話(神の支配の到来)。
*十字架は殺害、復活は十字架に極まるイエスの生に対する神による肯定。
*教会はイエスの出来事によって触発された人間集団が原形(制度的教会の諸層は大事であるが、原形からの批判的検討を絶えず保留する限りのことである)。
*「福音によって立つ自立的人間は、癒され・救われた者として他者の隣人になる」(義認の一方的強調の偏りを糺せ)。
*「癒され、許された面とキリストに従うという面の両面の強調」。
*個人が全体に吸収されない(ばらばらの一緒)。
*切り捨てをおこなわない。
*教職者はそのことに仕える過渡的な存在。
*教会は会衆(求道者・信徒・教職)にとっての自立と共生の場。
*聖書と現実の双方からの学び。
*真実な交わりと弱者の解放。
神学的教科書のような理念としての教会を語っていない。付録に紅葉坂教会の2004年度の牧会と教会行事予定が付いているのは実践的。
4.過渡的教職論
今の固定的教職制度への批判として「無教職論」(”牧師とは何か 無教職論 ー 万人祭司主義の徹底化と教職” 辻建『福音と世界』1970年2月)が述べられたが、その非現実性を「名古屋月曜会」が批判したのがここの論点(『福音と世界』1976年11月)。
その視点は社会における分業の理念による。過渡的であるための二つの必要。①教職の選任では、教会が明確な方向付けをもつ(宣教論とのかかわりで)。②委ねたものを取り返す回路の確保。
5.聖餐論
二つの考え方がある。
神田健次「① 神 → 教会 → 世界。② 神 → 世界 → 教会。前者クロ-ズド、後者オ-プン」。
荒井献「『パウロ』は閉じられたもの。『マルコ』は開かれたもの」
*閉じられた立場の文献。
芳賀力編『まことの聖餐をもとめて』(教文館 2008)
赤木善光『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか―神の恵みの手段としての洗礼と聖餐』(教文館 2008)
*開かれた立場の文献。
山口雅弘編『聖餐の豊かさを求めて』(新教出版社 2008)
新教コイノーニア24『聖餐 イエスのいのちを生きる ―57人の発言』高柳富夫 / 禿 準一 編(新教出版社 2008)
開かれた場合、教会の共同性があいまいになり、教会への責任主体の崩壊に繋がらないか、という危惧に対して、共同性を被差別者と差別者双方の解放の視点におくことにより、『聖餐』を政治性を秘めた「抑圧的権威の象徴」からの解放につなげる。
これにより無自覚であった教団戦時中の「聖餐」との連続を止揚することが出来るのではないか。
著者の視野には「弱者(戦争被害者)への罪責」、そこを克服する共同性がある。
終わりに
北村さんとはよく会う。明るい人柄が魅力だ。
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