ベトナム戦争と岩国市民(2009 講演)

2009.3.25 岩国教会

2011年3月【科研研究成果報告書】

岩井健作(元岩国教会牧師、明治学院教会牧師)

 私は1965年から1978年までの13年間にわたって岩国教会の牧師を務め、岩国幼稚園の園長でもありました。

 私は当初、基地の問題をあまり意識しておりませんでした。しかし、川下に行って初めて基地を見たときの強烈な印象は今でも忘れることはできません。それはフェンスに囲まれてアメリカ風のペンキの建物が低く点在している、どうということのない風景だったのですが、目を移して星条旗が瀬戸内のさわやかな風に翩翻と翻る様を見たとき、精神的にこの風景を受け入れがたく感じました。

「ああ、ここに安保がある」という思いを実感したのです。違和感というか、あってはならぬものがそこにあるという感じです。ところが、「慣れ」というものは怖いもので、岩国に住んでいると、基地に対する感覚が日常的なもので慣らされてしまうからです。思えば岩国在任期間は基地問題へのこの慣れとの格闘の日々だったと思います。

 私がベトナム戦争を意識しだしたのは69年から70年にかけてです。一方で、私の教会では岩国基地の警備員として働いている信徒がおられました。今日は「ベトナム戦争と岩国市民」というテーマを与えられていますので、ベトナム反戦運動を担った市民のさまざまな活動について振り返りたいと思うのですが、そこには当然ながら「市民とは誰か?」という、現在も問われている間いかけも含まれています。そして、この期の反戦運動の特徴は労働組合であれセクトの運動であれ、さらに政党の運動であれ、イデオロギーによる動員という従来型の運動とは異なり、「べ平連」に象徴されるようにあくまで個人に立脚して参加した運動であったことです。そのなかで一人ひとりの個人の「人柄」が「事柄」(イッシュー)を媒介にして人びとに影響を与え集団的な運動に結びつけていったのです。そのような運動スタイルはこの時期にできたと言えます。このような動きが封建的と言われた岩国のムラ社会的人間関係を変えてゆくきっかけになったことは確かです。その意味では、現在の住民投票を契機とする岩国の基地をめぐる運動の盛り上がりは、70年代のこの時期に芽生えたのです。

 たとえば、今反基地運動の先頭に立ってめざましい活動をしている市議の田村順玄さん。当時は市職労の委員長でした。彼はその頃から日米安保条約との関連で基地問題に歌り組んでいました。彼の人柄が多くの人びとの意識を基地問題という事柄に結びつけたことによって運動が盛り上がっていることは誰の目にも明らかです。

 今日は私は発題者として私白身がかかわり、経験した事柄の断片を語ることにしますので、ここにおられる方々がそれぞれの場で経験されたことを補い、そして深めていって欲しいと思います。そうすることで、ベトナム戦争期の岩国の反戦運動の全体像が描けるようになるでしょうから。私の話がそのような作業のきっかけになればうれしく思います。なお、今日の私の報告は、私がかかわり、目撃した基地をめぐるさまざまな運動の記憶の断片を『となりに脱走兵がいた時代 ージャテック、ある市民運動の記録』(思想の科学社 1998)、『資料「べ平連」運動』全3巻(べ平連編、河出書房新社 1974)、そして『べ平連ニュース縮刷版 1965創刊−1974終刊・脱走兵通信・ジャテック通信』(べ平連編 1974)を参照することでつなぎあわせながら、当時の状況を素描してみたものです。


市民、兵士双方に反戦意識を生み出したベトナム戦争

 私がベトナム反戦運動にかかわりをもつようになったのは、1970年のある日、胡子雅男(えびすまさお)さんから突然電話があって岩国基地内の反戦兵士たちのアジトの住宅を彼に誘われて訪ねたのが始めでした。彼らは『Semper FI』(センパー・ファイ「永遠の忠誠」の意、海兵隊のモットー)という新聞を出していました。その後、それを刷るために教会の印刷機を使ったこともあります。

 ここでまず、ベトナム戦争の概略を押さえておきます。ベトナム戦争にアメリカが介入したのは1965年で大規模な北爆を開始し、全体として50万人の地上軍を投入するのですが、68年のテト攻勢以後、解放戦線側が主導権を握ります。最終的には1973年1月にパリ和平交渉が成立し、3月に米軍撤退、戦争終結が宣言されるのですが、解放戦線側の犠牲者227万人、米国・南ベトナム側98万人という膨大な数の犠牲者が生み出されることになりました。また、通常兵器以外にも枯れ薬剤などの非人道的兵器が使用され、その影響は後の世代にも及び、動員されたアメリカの兵士の多くに人格破壊をもたらしたことはよく知られているところです。

 一方で、このベトナム戦争は大規模な世界的反戦運動を引き出したことでも知られています。アメリカでは各地に広がり、67年ワシントンでは50万人規模の反戦大会が催されるに至っています。これを受けて日本では65年4月24日に小田実らの呼びかけで「ベトナムに平和を! 市民文化団体連合」(翌年10月に「市民連合」に名称変更)が発足しました。この運動は日本中に燎原の火のごとく広がり、米軍岩国基地の街においても反戦活動が活発になされるようになりました。

岩国べ平連の誕生

 先にふれた胡子雅男さんは岩国在住の県税事務所職員でしたが、たった一人で「岩国べ平連」を名乗り反戦GIの支援運動をしておりました。川下の民間借家をアジトにして反戦紙『Semper FI』を出すのを手伝っていました。彼については鶴見俊輔氏がどこかでこんな風に書いていました。たった一人でどこの組織にも属さず、野良猫のように歩いて運動をつくりだしてゆく、と。彼はまったく英語などできないけれど、基地内に出入りして米兵の組織化を手伝い、新しい運動の状況を作り出していったのです。彼のような運動スタイルをもつ活動家がなぜ生まれたのかを考えると、ベトナム戦争というものが一人一人の主体というものを引き出していった戦争であったことがわかります。それは基地外の市民運動にとってだけではなく、徴兵された米兵自身が戦争と自分との関係を考え出したという意味でも画期的だったと思います。

 ちなみに、67年以来の脱走兵は35万4000人余、良心的兵役拒否者(Conscientious Objector)は18万2900人余という数字(非合法の拒否者は他に7万〜10万人)があげられますが、ここに米兵の厭戦・反戦の意識が端的に表れているのではないでしょうか。

 兵士のことをGIと言いますね。アメリカ陸軍の語源はもっと違うところにあるようですが、これが”Government Issue”(ガヴァメント・イッシュー)の略字として使われるようになり、すべての「官給品」、さらにその支給を受ける「兵隊」を意味するようになりました。だから、兵士は頭の中まで”Government Issue”として鍛えられていく ーこれが軍隊教育の核心です。ベトナム戦争当時は徴兵制がまだありましたが、貧困のゆえに志願兵(Volunteer)になる若者がたくさんいました。イラク戦争以後はもっとひどいようです。格差社会のなかで貧しく仕事にもありつけない若者をリクルートしてきて徹底的な軍隊教育を施すなかで頭のなかまで改造して兵士に仕立ててゆくことが堤未果さんの『貧困大国アメリカ』(岩波新書 2008)に書かれています。そしてこれに適応できない者は精神障害を抱えることになる。2004年の統計では6人に1人の割合で精神を病み、早晩、3人に1人という割合になるだろうと言われていたようです。無抵抗な市民を殺害したおぞましい経験、24時間、どこにいるかわからない敵に狙われているという緊張感、大義なき戦争に加担しているストレスが兵士たちの心を破壊していき薬物やアルコール依存のみならず、少なからぬ自殺者を出していることがこの本に記されていますが、ベトナム戦争でも同様のことが起こりました。無意味な戦争、それが長期間にわたったぶん、脱走兵や良心的兵役拒否者を大量に生み出したわけです。ですから、ベトナム戦争期の市民の反戦運動も、フェンスを越えて人間としての兵士とつながろうとしました。「Gls, Join us! 」という呼びかけのスローガンにそれを見ることができます。それ以前の運動では「Yankees, Go home!」というスローガンが基地を撤去せよという意味で使われていました。これは基地が戦争遂行の施設であることから来ていますが、その時は兵士の心の葛藤や良心的兵役拒否というような問題は反戦行動の課題にならなかったと言えます。ですから、反戦兵士との連帯・共闘 ー この考えが出てきたときには私は本当にびっくりしたものです。それまでは「四者共闘」というような形で政党・組合間の共闘で動員された人々が”Yankees, Go home”と叫ぶようなデモが常態でしたから。基地という施設と人間とを区別することなど考えてもみなかった。

岩国における反戦運動 一 1970年

 そもそも「べ平連」は発足間もない頃から脱走兵支援の問題に取り組んできました。有名なのは「イントレピッドの4人」の事件で、これは、1967年10月23日、横須賀寄港中のアメリカの空母イントレピッド号の水兵四人が休暇上陸中に脱走を決意、11月11日に日本脱出を図り、最終的にはモスクワ経由でスウェーデンに入ることで無期限永住を認められました。「ジャテック」(JATEC)と呼ばれるべ平連の脱走兵援助組織が生まれたのは翌年のことです。

 岩国でも1970年1月に『Semper FI』が発刊されたように米兵の反戦運動は公然化して、2月5日には基地内で黒人兵による大衆団交が行なわれています。岩国基地内でべ平連などが米軍向けの反戦放送を開始するのは3月21日ですが、べ平連は26日には岩国基地で”We got the brass”(上官の尻尾をつかまえたぞ :俺たちは怒っているぞという意味。海兵隊には軍隊に行くしか生きられないという、ならず者のような志願兵が多い。戦場では、前からだけではなく、後方の士官からも弾が飛んでくる。本当の敵はベトナム人ではなく、軍隊で飯を食ってきた士官たちであることに意識ある兵士たちは気づいたので、この表現を使った)というビラを配布しました(つづいて三沢基地でも配布)。4月5日には基地内でラブ・イン集会(ヒッピーたちが行なった愛を語るための集会に語源をもつ)が開かれ、広島・岩国べ平連主催の「岩国反戦米兵支援連帯集会」が200名の参加者を集めて行なわれたのも同じ日です。

 さらに、べ平連は1週間後の12日には錦帯橋下で反戦米兵が40人も参加したラブ・イン集会をもちました。参加者は銘々がスローガンを掲げて集まったのですが、たとえば「帝国のタバコか、人民のマリワナか!」というようなムチャクチャなスローガンを書いてきた者もいました。

 私は、このようなことを通じて、既成の体制とか秩序というものが思想としても揺らいでいることを実感したものです。こういうことを肌で感じることは人生のなかではめったにないことでしょう。おそらくはその反動として締め付けがくるでしょうから、これからの社会運動にかなりの覚悟が必要だなとも感じたわけですが。

 この間、アメリカでは4月15日に数十万人規模の反戦集会が行なわれており、この勢いが岩国に飛び火したことも事実です。4月4日に行なわれたラブ・イン集会でジャテックの存在を知ったノーマン・ユーイングという米兵は、岩国基地から脱走し、京都で支援者の適格審査(スクリーニング)を受け、8日に東京に行き、カウンセリングを受け6月30日に岩国に戻りました。そこでCID(Central lnvestigation Command アメリカ陸軍犯罪捜査司令部)に逮捕されます。6月には、3日、岩国べ平連はロ二ー・レナー他4名の反戦米兵が本国に強制送還されたことを発表しています。7日には『Semper FI』の編集者6名も本国送還になったことがわかりました。軍当局の必死の弾圧が強まります。

 7月に入ると3日夜、基地内でGI40名以上が営倉などを13時間にわたって占拠するという反乱が起こるのですが、そのとき、前日に小西誠・小田実・吉川勇一氏を講師として岩国では集会が行なわれたために小田・吉川の同氏は教会の近くの山根旅館に投宿されていました。夜遅く私のところに兵士の一人から電話がかかり、営倉で暴動が起こり、兵士が火をつけ火事になっているのでこれから行く、と言うのです。私は、このことをお二人に連絡したいと思い表に出たのですが、刑事が張っていることがわかりました。これはまずいと思い、電話で吉川さんに連絡をとりました。浴衣姿で片手に団扇か何かをもってぶらーと散歩するような格好で錦帯橋の上側の橋を渡ってバス道の裏を抜けて教会に来てください、こちらに米兵が来ますので、と告げました。首尾よく小田・吉川さんは教会に来られ、米兵は夜中の三時前頃に来て会見することができたのです。その兵隊を待っている間に小田さんは出版したばかりの『難死の思想』の表紙裏に一筆書いてくれました。「岩井さん、アメリカ独立記念日におこった興味ぶかい事件を午前3時という非市民的時刻にききながら 小田実」とあります。

 牧師館の応接間で浴衣姿に団扇を手にした小田さんと吉川さんは若い兵士と英語でしばらくやりとりをしたあとで、吉川さんは朝日新聞の東京本社に電話を入れ、基地内で暴動が起こっているので、岩国支局の記者の取材の手配をしてほしい、と申し入れました。記者が基地内に入る際に多少のいざこざはあったようですが、この岩国暴動の記事は「岩国基地で反乱米兵32名が営倉を占拠」という見出しで翌日の朝刊の一面に大きく載りました。

 この4日の反乱に加わった兵士のうち8名は横須賀に移送されたのですが、これを支援するデモが70名の参加で12日に行なわれています。 27日には、ミッチ・タブマン、バーン・ケンプがマリワナ所持容疑で逮捕されるという事件が起きます。三沢基地への連絡をするために2人は特急「あさかぜ」に乗ったところ、見張っていた警察は、どちらだったかが便所に行くのを見届けて洗面所にマリワナ・ケースを仕掛け、マリワナ所持で逮捕するというデッチアゲ事件です。不当逮捕に抗議して私たちも何度か岩国署に赴いて留置場に入れられている2人に聞こえるように「がんぱれ!」と大声で叫んだことを憶えています。

 基地内における反戦兵士の運動、そしてそれを支援する基地外の市民運動という両者の連携がこの時代の運動を特徴づけるものですが、8月4日に基地外で行なわれた反戦兵士強制送還反対デモは基地内の20名の兵士の参加でもたれた反戦集会と同時開催のデモです。

 このような反戦運動の盛り上がりに対して官憲の弾圧も厳しくなってきますが、先ほど述べたデッチアゲ事件もその一つですし、岩国では7日に「仁義社」という右翼団体がデモ隊を襲撃するという事件も起こっています。この日、佐藤首相は南ベトナム首相に経済援助促進を確約したように政府の姿勢は戦争支持で一貫していたわけですから、反戦兵士支援の市民運動は日米両政府の同盟関係への痛烈な打撃だったのです。

 反戦運動はさらに盛り上がり、9月28日には125名の兵士が基地内の水泳場で反戦集会を開いていますが、基地内の集会は29日、30日とつづきました。 10月6日には、7月4日の反乱について13人の兵士の軍事裁判が開始され、まずデヴィッドソンに重労働・不名誉除隊の判決が下されました。

 21日には、岩国に国際反軍連合(ICMC、lntemational Counter- Mnitary Conective)が結成されています。基地外では、反戦米兵支援デモが10日に開催されています。 11月9日に広島でラブ・イン集会が開かれたときも、岩国から150名の米兵が参加したそうです。

 この同じ日に尼崎教会の種谷俊一牧師が「尼崎高校事件」にかかわった高校生をかくまったという容疑にれは表向きの理由で、実際は脱走兵支援容疑による)で逮捕されるのですが、これはいわゆる「牧会権裁判」に発展し、日本キリスト教団にとっては大きな事件になります。

岩国における反戦運動 ー 1971年

 1971年5月5日、岩国では、京都、福岡などのべ平連が参加して70名が滑走路沖で凧揚げなどの行動をしました。13日、岩国海兵隊指令官が岩国べ平連の胡子雅男さんに基地立ち入り拒否を通告しました。基地ではチャプレン(従軍牧師)に会う必要がありますから、マックウィリアムズ牧師と私も基地に出入りしていたのですが、「両牧師の正門からの入構を禁ず」という張り紙がしてあったことを信徒で基地警備員だった魚谷徳男さんが知らせてくれたのも同じ頃でした。以降、私は基地内には自由に入れなくなりました。

 参照:『ほびっと』から(2019 サイト管理者)

 10月3日には、岩国・広島べ平連20名と米兵50名が反戦ロック祭りを催し、そのあとに錦帯橋座り込みを行ないました。16日、社会党・楢崎弥之助議員が国会で岩国基地に核兵器が保管されているのではないかと疑惑を表明したことで、岩国市民を恐怖に陥れました。この質問の情報源は、基地内の電話番号簿に「Nuclear Weapon」というセクションの番号が載っていることを兵士が情報提供してくれたことです。私たちも見に行って、一番奥手にある弾栗東の建物がそれだろうと話していたのですが、よくわからなかった。

 12月になるとジェーン・フォンダらが参加するFTA(Free Theater Association)ショー・グループが日米親善・兵士慰問の名目で来日しますが、これは羽田で入国条件をめぐってもめたそうです。FTAショーは横田、沖縄・コザ、京都などを巡回したのちに岩国市体育館で開催され、米兵1300人が参加しました。これが後に市議会で問題になり、「ジェーン・フォンダという“暴力団”に誰が会場を貸したのか?」と質問が出たそうです。今から思えばよく借りられたものだと思います。当時の教育委員会の窓口はかなりゆるやかだったのでしょう。

 以上、70年から71年にかけての岩国の反戦運動の状況を見てきましたが、71年12月26日から5日間にわたって米軍は、68年11月の北爆停止以降最大規模の北爆(延べ1000機以上)を再開していることを付け加えておきます。戦争の末期的状況を逆説的に示しています。

反戦コーヒーハウス「ほびっと」


 72年2月25日に開店した「ほびっと」は、京都から来た中川六平さん、富田裕明さんが、福岡からの3名の青年を入れて5人の若者で開いた喫茶店です。6月4日(日)に広島・山口両県警による家宅捜索を受けて翌日の新聞各紙に「米軍ライフル銃が『ほびっと』を通して赤軍派に流れた」と大見出しの記事が掲載されたために「『ほびっと』=赤軍派」というまなざしが定着するなかで客足が減り、最終的には76年1月18日に閉店になってしまいます。しかし、記録を見るとうまいコーヒーを飲ませる店としてかなりの売り上げがあり、ずいぶん多くの市民が参加していたことがわかります。今日は二代目マスターの富田さんが来ておられますので詳しい話は彼に譲ります。また、同志社大学の学生だった初代マスターの中川六平さんは「「そういう時代」のほびっと」という興味深いエッセイを『となりに脱走兵がいた時代』に書いておられるので、それを読んでいただきたいと思います。

 中川さんは「『ほびっと』をオープンしたのは基地内のGIと基地外の岩国の人たちとが共闘をめざす場を作りたかったから」と言っていますが、「ほびっと」も私が最初にふれたように人と人の出会いによって人びとを事柄(イッシュー)に結びつけてゆくというこの期の反戦運動のなかで重要な場を占めていたことは確かです。

 ところで、「ほびっと」という名前の由来ですが、トールキンの『ホビットの冒険』から取られたそうで、命名者は米兵と鶴見俊輔氏です。場所は岩国市今津町2−2−39の岩崎医院の旧宅で、岩崎氏自身は岩国教会の関係者でもありました。紹介者は、岩国東教会の田ロ重彦牧師の依頼を受けて、不動産屋(旧宅は不動嵐屋に買い取られていた)との仲介の労をとったのは羽熊耳鼻科院長夫人の岩国教会員・羽熊梅子さんだと言われています。この家探しは四度目に決まったわけで、このことについて『時事日本』という地元の小さな新聞が「キリスト教や牧師が保証するからとて、絶対に安心できない。それどころかかえって悪い結果が多い。どうやらキリスト教と赤軍派は親密に連絡しているらしい」(1971年11月29日)と書いているように、保守層の根強い抵抗があったことが伺われます。

 6月5日の新聞報道を見てびっくりされた中川さんのご両親がすぐに岩国に駆けつけてこられました。息子さんは大学に行っているものと思っていたところへ、あんな大見出しが出たのですから、さぞ驚かれたことでしょう。私はご両親と会い、息子さんは将来性のある好青年で、ずっと岩国に住むわけでもないし、いずれ大学にも戻って自分の進路をみつけられるのだから心配には及ばない、と話して新潟に帰ってもらったことを思い出します。

「ほびっと」弾圧をめぐる抗議行動を年表風に補足すると、次のようになります。

1972年
6月4日:家宅捜索についての各紙の報道と同時に鶴見俊輔氏は記者会見を行ない抗議表明をしました。
7月7日:小野誠之弁護士らの各県警への抗議。
7月22日:基地司令官の「ほびっと」立ち入り禁止令。
10月2日:石崎昭哲・岩谷和夫・吉川勇一氏らが、広島・山ロ県警の警官20名以上を6月4日の「ほびっと」弾圧の件で告発へと続きます。
翌1973年5月10日:ベトナムのチー神父とマンダラー尼(ベトナム政治犯釈放運動で来日)が岩国基地を見学し、「ほびっと」を訪問しています。
8月12日:岩国警察署員が、「ほびっと」集会に参加しようとした市民2名に嫌がらせをしたことも記録に残っています。
翌日、岩国べ平連は岩国署に抗議。
11月24〜25日:「ほびっと」で埼玉、東京、京都、岩国、福岡などの若者40名が参加して交流集会が行なわれました。
そして、1976年1月18日、「ほびっと」は閉店することになりました。

 参照:ほびっと ぼくになにができるか?(2009 望楼 ⑨)
 参照:『ほびっと』から(2019 サイト管理者)


岩国におけるキリスト者の平和運動

 岩国の平和運動を牽引してきたのは四者共闘(社会党、共産党、地区労、キリスト者)でした。その共闘方式が行き詰まり、個人原理に立つ市民運動に転換してゆくのは69年ですが、ここでキリスト者運動の簡単な年表をたどってみたいと思います。

1959年 岩国キリスト者平和の会結成(会長・杉原助)。原水禁(第5回)、安保改定阻止、核武装阻止の諸行動に取り組む。
1960年 安保改定阻止(田布施・岸信介邸にデモ)、靖国反対、沖縄返還貫徹行動などに参加。
1961年 世界宗教者平和会議の支援、中国訪日友好団の歓迎などに参加。
1962年 第8回原水禁、護憲、全日本キリスト者平和会議に代表を送る。
1963年 広島・呉・岩国合同キリスト者平和会議、キリスト者平和の会中央組織に参加。原潜寄港反対。F86ファントム移駐反対六者共闘行動に参加。
1964年 被爆者完全援護法成立請願。核実験をめぐって「いかなる国問題」が表面化し、原水禁運動が「原水協」と「原水禁」とに分裂。キリスト者平和の会も全国レベルで議論に巻き込まれる。当面、山ロ県四人委員会(学識経験者、被爆者、宗教者から選ぱれた4名)の組織化を見守ることにする。第2回全キリスト者世界平和会議(プラハ)に高倉徹牧師参加。募金活動を行なう。
1965年「ベトナムに平和を求めるキリスト者緊急会議」を支援。市原水協(共産党系)を脱退。日韓条約阻止。ファントム反対四者共闘(社、共、地区労、キリスト者)による行動に参加。山口被爆者会館募金に参加。
1966年 祝日法案反対。日中友好青年交流に日本キリスト者平和の会代表の来間高男氏参加。ベトナム反戦岩国基地撤去集会(県安保共闘主催300名)に参加。日本共産党は中国派の左派と分裂、両者を別々に招き、懇談会を開き学ぶ。
1967年「日本基督教団の戦争責任告白」支持。ベトナム医薬品募金(べ平連)に参加。山口被爆者会館建設街頭募金(岩国駅前9名参加、募金額3492円)
1968年 岩国キリスト者平和の会会長・岩井健作。第3回全キリスト者世界平和会議(プラハ)への杉原助氏参加を「派遣募金委員会」を組織して支援。「2.11紀元節反対」。「岩国から基地をなくす会」(四者)チェコ事件に声明書。
1969年「2・11思想と信教の自由を守る会」(於山口、岩国から20名参加)。社・共の対立により四者共闘に行き詰まり。 NHKローカル山口の話題「岩国基地をどうするか」討論会に岩井健作参加。
1970年 岩国基地内反戦兵士の支援、良心的兵役拒否者支援。岩国教会で「基地問題セミナ
ー」開催。キリスト者基地ヘデモ。
1971年 基地への核搬入問題。 PCS (Pacific Counseling Service)、べ平連には個人で参加することを協議する。
1972年 反戦喫茶「ほびっと」支援。基地開放日にビラ撤き。
1973年 靖国ハンスト。ベトナム政治犯釈放要求行動。韓国民主化闘争支援。
1975年 中谷裁判、清鈴園支援。(サイト記:以下の一文、はっきりしないのですが、そのまま記載)女性解放問題(田口幸子氏「人間解放をめざして」『福音と世界』(1975年6月号)への批判を、来間高男氏が同誌75年10月号に発表した。社会変革における「性解放」の意味をめぐって、聖書の視点での倫理のあり方の問題として討論が行なわれた)。

 この時代のキリスト者平和の会で学習されたテキストとして次のようなものがあげられます。
『危険な思想家』(山田宗睦、三一書房)
『教育の森』(村松喬、毎日新聞)
『あるキリスト者の戦争体験』(安藤肇、日本基督教団出版局)
『キリスト教社会問題研究 一戦時下抵抗の研究』(同志社大学人文科学研究所)
『昭和史』(遠山茂樹、今井清一、藤原彰、岩波新書)
『平和の政治学』(石田雄 岩波新書)
『70年安保の新展開』(朝日新聞社)
『良心的兵役拒否の思想』(阿部知二、岩波新書)
『国家神道』(村上重良、岩波新書)
『ベトナム戦争』(亀山旭、岩波新書)
『天皇制』(井上清 東大新書)
『自衛隊』(星野安三郎 林茂夫 三一書房)
『慰霊と招魂』(村上重良 岩波新書)
『日本史の虚像と実像』(和歌森太郎 角川文庫)

 私たちはなんとかしてキリスト者の信仰と生き方を日本社会の課題のなかでとらえ返そうとしていたことがわかります。

 キリスト者平和の会は「教会」が社会の問題に目を開くための刺激剤の役割を担うなかで、地域の平和運動において、運動理念や行動において異なる見解をもつ組織や個人をつないでゆく役割を果たしえたのではないかと総括されています。人権や反戦運動の思想的根拠を究めて行く作業をするなかで、少数者ではあるが大事な働きをしてきているというのが現在に至る私の感想です(資料『18年の軌跡 ー岩国キリスト者平和の会の歩み 1959-1977』(岩国キリスト者平和の会発行、編集・岩井健作 来間高男 1977)。

 ここで1970年6月に岩国教会で行なった「基地問題セミナー」について、少し説明を補足してみましょう。これは西中国教区社会部と岩国キリスト者平和の会の共催で持たれました。内容は、板付基地闘争を戦ってきた石崎昭哲氏(福岡べ平連)の「基地の安保」という講演を中心に置いて岩国基地労働者である魚谷徳男氏(岩国教会員)「基地に働く者の立場から」、来間高男氏(岩国教会員)「基地の状況と反対運動」、杉原助・広島南部教会牧師「基地反対運動と戦争責任告白」という発題を受ける形で50数名の参加の下に行なわれた討論会でした。

 この後、駅前の繁華街から基地ゲートまでビラを配りながらデモを行ないました。基地の金網越しに女性たちは婦人矯風会本部が作った”To Mothers and Wives of the United States”の詩をマックウィリアムズ牧師に詠んでもらい、米兵が子どもの頃に歌った賛美歌を歌いました。このデモには始めからMPと日本の私服警察がついてきましたが、ゲート近くでマックウィリアムズ牧師がMPに停止を命じられ、ガソリンスタンドに入るよう言われたのですが、牧師はカナダ国籍の民間人にMPが指図する権限はない、と拒否しました。このことがあってから牧師の基地入門証は取り上げられ、基地側と日本の警察の牧師と教会への警戒は厳しくなりました。

 私は先に、この期の基地反対運動の特徴として基地という施設とそこに働く人間としてのGIを区別する見方を強調しましたが、教会自身もこの問題を考えなくてはならなくなりました。というのは、1970年4月、ASU・アメリカ兵士組合(American Servicement Union)に属する米兵が、人間として自由に話のできる場所を教会に求めてきたからです。これは、金網の中に我々と同じ人間がいたのだという発見でもありました。ASUは1968年に正式に結成され活動を続けている祖織です。この兵士の出現によって岩国地区の4人の牧師が話し合った結果、岩国教会を提供して「English Language Evening」という月2回の例会をもつことになりました。「基地問題セミナー」の開催もこの米兵の出現がきっかけです。戦争責任の告白、靖国闘争、公害、被爆者と清鈴園建設につて短い話しをした後で、コーヒーを飲みながら自由に話し合いをするというような集まりでした。

岩国の市民運動の芽生え

 1969年が市民運動の転換になったという点ですが、それについて私は次のように書いています。

「1969年以来、戦いの主体・変革の主体が問われ、平和運動はいちじるしく個人原理にたつ事を迫られている。これは孤立ではなく、国際的な普遍性をも同時に持っている(1969年 岩井総括)」(前掲資料24ページ)。

「個人原理にたつ」ということは一人でもやるという覚悟がないかぎり運動は育たないという意味です。そして運動にはいろんなバラエティの人が必要なのです。そういう人と人のつながりがあって初めて運動が出来てゆく。73年当時、岩国市長を務めていた朝枝俊補氏はこう言いました。「岩国で基地反対運動や平和運動をやっているのは市民の皆さんではなくよそから来た人である」(米軍基地の街の今後の市政をどうするかについて熊井智也地区労議長などとともに出演したNHKの番組のなかでの発言)。これは「市民」と「よそ者」をはっきりと区別し、分断する思想です。ところが、市民運動というのは市民とよそ者の区別がつかなくなることが重要なのです。このことを小田実氏や鶴見俊輔氏はべ平連運動のなかで「普通の市民」と呼ぴました。あるいは、「一人ひとり」と言われたものがこの考えをよく表していると思われます。

「革新派」というのはある意味で安全です。それは権力の配分を要求することで現状維持を支えることに貢献しますから。ここにおられる方は、基地の滑走路で社・共・地区労の運動がいわぱ主体となってタイヤを焼いた事件を覚えていらっしやいますね。この行為の結果は、飛行機が飛べなくなるので、一見過激な運動を展開しているように見えます。だが、このような行動自体は岩国を取り巻く政治・経済情勢のなかで考えてみなくてはなりません。この事件は市議会でも問題になり、焼却炉がないのでこんなことになるのだからということで、設置費用の補助を防衛庁に要求しました。これが基地問題の解決に一歩でも近づくことなのでしょうか?

 基地の街を取り巻くシステムの現状維持に取り込まれてしまっているのではないか、と私は疑問に思うのです。実際、私はある議員からこんな風に言われたことがあります。「あんたのところの運動はおとなしい。もう少し派手なことをやってくれんかのう。そうすれば防衛庁からもっと補助金が取れて市も助かるんだけど…‥」と。

 私が岩国小学校のPTA会長をやっているときにも同じようなことに遭遇しました。小学校の建て替えに際し、これを文部省に予算申請すれば坪当たり8万円の補助金が出る一方で防衛庁に申請すれば防音装置を含めて13万円の補助金が出るので、当然のことながら防衛庁に申請する。結果は、建物が完成して祝賀のセレモニーをやったとき防衛庁の役人が来て「おめでとう」と挨拶することになる。もちろん、これは軍国主義の浸透という言葉でも説明できるのだけど、そんな言葉を使わなくても私は基地の街のシステムを理解したような気がしました。自治体も国の政策に逆らわないで、それを容認することでできるだけ沢山の補助金をもらった方がよいという姿勢になり、利益誘導をみせつけられることで住民もそういう意識を植え付けられてゆくものだということを実感したからです。

 今回の井原勝介前市長の戦い方の基本姿勢は「地方自治」という問題に焦点を当て、従来の利益誘導型市政を脱却しようとしたことで画期的なものです。同じことは市民運動にも言えることで、運動はイデオロギーで展開するものではなく、生活の根本的な感覚に立脚して一人ひとりがやってゆくものです。

 基地反対という運動にセクトのそれのようにイデオロギー優先的に動員されるのではなく、基地が存在するという事柄に人柄が結びついてゆくという運動の作り方、そういう運動の芽生えというものが70年代のベトナム反戦運動期にできたと思います。そしてそれを育てる基盤というものが岩国にはありました。

 当時東京から広島に移ってこられ、岩国の連動を目撃した掛川恭子さんという方が「岩国の二年」という文章を書いています。「岩国でも広島でも市民は頑張っていた。岩国には前にも述べた絹子雅男を中心とする若者とキリスト教教会の牧師らのおとなたち、広島には広島大学教員の岩谷和夫を核とした人たちがいて、それまでの地道な活動もそれ以後のもっと表面化した行動も、その人たちが担っていた。東京のようにどこにでも簡単に埋没できてしまう都会とちがい、なにをしても人の目がつきまとう地方都市で反対の声をあげることがどんなに勇気のいることか。それを知って、ひ弱な東京女はますます動揺を深めた」(『となりに脱走兵がいた時代』171頁)。

「考えてみると、岩国には反戦の戦いすべてをまとめる組織もなければ、人物もいなかった。地元の人も全国からやってきた若者たちも、なんとなくそれぞれに頑張っていたわけで、その意味でべ平連的だったと思う」(同上177頁)。

「おとなたち」としてここでは教会があげられていますが、ここで生活している人たちのことです。

 私たちはあまり勇ましいことはできなかったけれど、運動の先端部分を担う若者と市民をつなぐ役割を果たそうとしました。いささか「過激な」牧師を教会の人ぴとが支えてくれたということです。それは地域の人々にも及びました。私に公安がつきまとう時期がありました。教会の車の修理の面倒をみてもらっていた安田自動車をつきとめ、私の動静を聴いてきたこともありますが、そんなときも彼らは私を守ってくれました。こういう人々も含めて当時の反戦市民運動が構成されていたわけです。

女性たちの反戦運動 ー キリスト教婦人矯風会の女性たち

 先ほど私は、ベトナム戦争期の運動の特徴としてイデオロギ一優先的に動員された運動ではなく、個人に立脚した運動の芽生えとそれを育てる基盤ということを言いましたが、そういう運動の担い手としての女性たちの活動についてここでふれておかねばなりません。

 今日おみえになっている渡辺道子さんは、70年より始まる岩国教会の基地問題への取り組みを教会員として積極的に担われ、また、キリスト教婦人矯風会・岩国支部会員として女性の視点からベトナム反戦運動に取り組まれました。その活動については後ほど渡辺さんに補足していただきたいと思います。私が持っていたこの期の資料は、吉川勇一氏の誘いを受けてベトナムに設置されたベトナム戦争資料館に全部寄贈しましたので手元にありません。

 幸いに、渡辺さんが反戦カード“To Mothers and Wives of the United States” を保管しておられ、今日持ってきてくださっているので、皆さんご覧ください。

 私は、同じ矯風会の会員で「平和の会」の活動にも熱心に取り組んでおられた丹下まりさんという方のことを忘れることができません。私がここに来たときはすでに76〜77歳で人間として成熟をつよく感じさせる方でした。夫が海軍軍人だったために呉、佐世保、逗子など旧海軍ゆかりの地を転々としたあとで岩国に移り住まわれたとか。平和への思いを託して詠まれた歌「ジェット機が爆音残し過ぎしあと日本の障子みじめに震う」「禁止大会に代表よこせど次々と原水爆の実験止めず」などは今も心に残っています。デモにも参加されるのですが、おばあさんですから皆と歩調を合わせては歩けないために先頭からはおくれてしまいます。それでも諦めないで最後まで一人でぽつぽつと歩いてゆかれる。川下の通りを確かな意思をもって歩いていかれる後ろ姿を私はカメラに収めたことがあります。

ここに「教団 戦後の二〇年」というタイトルで岩国教会の歴史について書いた私の文章のなかで丹下さんの発言を引用したものがありますので、紹介します(『信徒の友』1965年8月)。

「わたしたちがやらなければならぬことはたくさんあります。しかし、中でも一番大切なことは憲法を守り、平和についてクリスチャンとしてしっかりした心構えを持つことだと思います。こんなことを言うと、ある人々はすぐに『あれはアカだ』などと申しますが、そんなことを言われてこわがることはありません。神の力はなによりも強いのですから。婦人は心のなかには強く考えていても、いざとなると他人がどう思うだろうとか、主人に悪いとかいうことのために、すぐひっこんでしまうことがあります。神さまの力を信じて、はっきり進めるように、わたしたちはがんばらねばなりません」

 年をとっても、前向きな生き方をされ、平和の問題に関心をもちつづけた心に残る方でした。


 私たちといっしょに渡辺道子さんも運営委員をしておられた「INCC岩国兵士センタ兵士センター」のことについて一言ふれておきたいと思います。渡辺さんはここでCO(良心的兵役拒否)という言葉を聞いたとき、兵たる者、最後まで戦うものという教育を受けた戦争世代として衝撃的であったと言われていました。また、岩瀬成子さんは79年から10年ほどここで米兵のカウンセリング活動に当たってこられたと聞きます。米兵が歓楽街にだけ娯楽を求めるのではなく信徒家庭の食事に招かれたり、センター主催のパーティに参加するなどして健全な娯楽のなかで人間性を取り戻してゆけるような場をしつらえてゆくという趣旨の活動をされたわけです。兵士センターはマックウィリアムズ牧師夫人マージェリー・マックウィリアムズ
さんが館長をされていた時期もあり、自らもご子息がカナダで兵役についていることもあって、兵士の気持ちが分かり、とてもよい働きをされました。地域の女性たちを巻き込む形で平和を求める活動をされたことはとても意味のあることです。

 ここで私がかかわったさまざまな活動が思い起こされるのですが、忘れられないのは、77年12月に三河ヨシミさん(通称ハナちゃん)という接客婦が米兵に惨殺され、岩国で8人目となったこの痛ましい犠牲者を追悼するために記念礼拝が行なわれ、当時の館長ダグラス・マッカーサー牧師とともに祈りを捧げたことです。

 こういう施設が出来るいきさつを簡単に説明するとこうなります。「米兵士への牧会」という観点から基地内の従軍牧師による活動とともに基地外の相談センター設置の必要性を痛感したのは米国キリスト教協議会(NCC-USA)です。クリスチャン・サーヴィスメンズ・センターを韓国、台湾、香港、沖縄、立川、府中、横須賀、神戸、岩国に設置することを計画したのですが、そのうちの幾つかが実際に活動しました。日本キリスト教協議会(NCC-Japan)の協力を得て開所したものの一つがこの「岩国兵士センター」です。マージェリー・マックウィリアムズさんが館長のときは、利用する兵士のことを考え、通称「セレンディプティ」と呼ばれていました。日本では岩国が最後まで残りました。センターの日本での計画実現にあたっては売春防止を標榜するキリスト教婦人矯風会の運動も与かって力あったことは事実です。

 岩国でセンターが開所するのは1965年6月15日。基地ゲートを出て川下繁華街に向かう途中にあった第一タクシーの建物の一部を借り受け、改装して出来上がりました。センターの活動は時期によって違います。キリスト教開係者のなかでも「ほびっと」と「センター」を姉妹組織のようなものとして受け止めていた人も少なからずいたことがわかりました。そのような「誤解」自体は所在地が近かったために生じたこともありますが、べ平連運動によってキリスト教の「米兵士への牧会」の概念自体が「兵士の自立」を大切にするというように根本から問われざるを得なかったということではないでしょうか。

市民とは誰か

 私が岩国教会の牧師であった1965年から13年間の基地をめぐる市民運動の報告を締めくくるにあたって、報告の主軸をなす市民とは誰なのかという問題を再度振り返ってみたいと思います。先ほど、73年当時の岩国市長・菊枝俊輔氏の「市民」概念を紹介しましたが、彼の言う市民ではない「よそから来た人」とは70年代の「べ平連」を指しており、「革新派」(社共)ではないことは明らかです。

 岩国は封建的城下町で、明治維新前の吉川藩時代からの人間でなければ岩国人とは考えていない所で、政治的には首相岸信介などを出した保守層の基盤です。それでも戦後帝人、山パル、三井石油などの労働者を中心に革新派がそれなりに労働、教育、文化の面で一定の働きをなし、キリスト教は高倉徹・杉原助牧師の働きで少数ながら発言力を持っていました。しかし、70年代のべ平連などの運動はこのような基盤に馴染まなかったので、これを担った若者たちもその面で苦労しました。けれども、そこには徹底した個への思想と行動があったことは注目に値します。それに触発されて表面的には点から線のごときではありますが、自覚的市民(人間)が確実に増加し、「基地にもの言う」住民、「考える」市民の誕生につながっていったのだと思います。

 今日の基地にもの言う市民運動の広がりは菊枝市長の発言からみると隔世の感があります。当時の住民たちの反基地意識が「基地の沖合移設」という問題にすりかえられ、さらに「愛宕山問題」を生み出しているように権力はいつでもだましの術で問題をすりかえ、みずからの意思を実現しようとします。

 これが世界規模で起こっているわけです。これを阻止するのは異を唱える個人で、そういう人々の集まりが運動として力をもつことは言うまでもありません。その意味で最初にふれた胡子雅男さんのような個人が出てきたということは大きな意味をもちます。彼の思想と行動はどこで触発され、どのようにしてはぐくまれたのか、研究に値するテーマだと私は考えます。

 ベトナム戦争という状況がそれに呼応する自覚的市民を形成する契機であったことは事実です。イデオロギーや建前で行動を生み出すスタイルから人間が個に目覚めつつ同時に他者との連帯を求めるという運動スタイルはこの時期に生み出されたものです。「兵士であるより前に人間である」という意識は「反戦米兵」となったアメリカの青年たちがもたらした土産でした。これは同時にベトナム反戦運動に触発されて誕生した市民運動にさらに人間であることの意味を問い返すという、そんな射程を付与するものでもあったと言えます。

「科研研究成果報告書『基地と岩国市民』」(2011年3月末日作成)P.2-12に所載の記録。

 附記「この記録は2009年3月25日に岩国教会において表題の研究会で行った発題者の岩井健作氏の報告を基に三宅義子がまとめたものである」。

 三宅義子 専攻女性学・ジェンダー研究。略歴 編集者、大学教員(1964-2010)を経て現在「平和憲法ネットワーク・やまぐち」共同代表。編著「女性学の再創造」他。

 資料(渡辺道子氏提供)”To Mothers and Wives of the United States”


「合衆国の母と妻たち 一 日本の女たちより」

そうです、私たちも同じ道をくぐり抜けてきました。
息子や夫を戦地に送ったのです、
共産主義と闘い、祖国を守るため、
アジア解放のため…‥と言われて。
わが武器が罪なき赤ん坊を殺していることなど知らなかったし、信じたくなかった。
そして救済のために働くはずだった彼の地で私たちが人びとの憎しみを買っていることなど思ってもみなかったのです。
私たちは、息子が命を落としたのは大義のためだ、とひたすら自分自身に言い聞かせようとしました。
息子らが犬死にしたなんて信じられなかったのです。
彼らの死が無意味であったことを他のお母さんたちに向かって話すことができれば、
他のお母さんたちが涙を流さなくてすむようにしてあげることができれば、
初めて私たちは心からの自信をもって言えるのです。
「息子たちの死は人道に用いられたことになる」と。
今、ベトナムで同じ悲劇が繰り返されています。
あなた方は遠く離れた戦地で殺し合いをするために息子や夫を送り出しました。
自由アジアの防衛を…‥そう言いふくめられて。
私たちはあなた方に思い出していただきたいのです
自由はナパーム弾やガス弾を後ろ盾にして説教されるものなのか?
それを問うてみる権利があなた方にはあるということを。
敵を作り、民衆に支持されない政府を支えるために、なぜかくも大きな犠牲を払わなければならないのか、理由を問うてみてはいかがでしょう。
あなた方は市民として、これがいったい犠牲を払うに値するのか? と問いただせるのです。
そうすれば、あなた方は愛する者たちを取り戻す力を手に入れることでしょう。
自由な人びとのくにを築く力を手に入れることでしょう。
あなた方が世界中の人に聞こえるように、こう言うのを私たちは待ち望んでいます。
「デモクラシーを救うのは戦争ではなく、平和だ」と。

(婦人矯風会訳)

「ベトナム戦争の参戦国の母と妻たち 一 日本の女たちより」

あなたは今日も、サイゴン、オキナワ、ヨコスカのニュースを待っています、
愛する者の安全を祈りながら。
私たちは今日も日本で米軍基地に離着陸する飛行機を不安気に眺めています。
積み荷は、ベトナムの泥と血が付着した、あなたの愛する者たち。
あなたの息子たちは戦場の悪夢を忘れ、明日になったら向き合わざるをえない死の恐怖を忘れるために泥酔して休息のひとときを大いに楽しむ。
あなたには聞こえないのでしょうか?
野戦病院の窓から、基地の鉄条網からもれる傷つき、樵悴した者たちがあなたの名前を呼ぶ声が。
あなたの心によぎらなかったでしょうか?
—瞬のかげろうのように
遠く離れた異国の戦場であなたの愛する者が人を殺し、次には殺されるかもしれないことが。
ベトナムの女たちは祖国を守るために起ち上がり、勇気あるアメリカの青年は徴兵カードを焼き捨て、そしてアメリカの母たちは「息子を返せ!」と叫んでいる。
私たちは、男たちに武器を製造し、ペトナムに送るのをやめさせます。
私たちは断じて息子を戦場に送りません。
心のなかで平和を願っているすぺての母たちよ。
ベトナムで、そして世界中で、すぺての女たちが愛する者たちと再び会う日がくるまで
手をたずさえて共に立っていようではありませんか。

(三宅義子訳)

ベトナム参戦国の母や妻たちへ

待っていらっしゃるでしょう 今日も無事かと。
サイゴンの 沖縄の 横須賀の
愛する人からの 便りを。
胸をいため 私たちは みています。
あなたの大事な人をのせて 今日も
日本の基地から 米軍機がとびたち かえるのを。
ペトナムの泥と血に汚れた あなたの息子たちは
束の間の休息を 酔いつぶれる
戦場での悪夢を
明日また連れ去られる死の恐怖を 忘れようと。
きこえませんか
野戦病院の窓から 基地の金網に中から
あなたの名をよぶ 傷つきつかれた 若者の声が。
想ったことがあるでしょうか かりそめにも。
愛するわが子が 遠い異国の戦場で
殺し 殺される日がくるなど と。
ベトナムの婦人たちが 祖国を守ってたたかっているとき
勇気あるアメリカの若者たちが 徴兵カードをやき
母たちが 「息子をかえせ」と叫んでいるとき
どうしてだまっておられましょう。
やめさせなければなりません。
私たちの夫が ベトナムゆきの武器をつくり おくるのを。
息子たちが戦場にゆき たたかうのを。
平和を願う母親どうし 手を結んで立ちましょう。
ベトナムや その他の基地にいる
愛するものと 再びあえる日がくるまで。

日本の婦人より

(婦人矯風会訳)