イエスの最後を囲む人々(2009 礼拝説教・マルコ)

2009.3.22、明治学院教会(148)受難節 ④

(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん75歳)

マルコ 15:33-47

1.マルコ福音書の著者は「イエスの死」を暗黒の宇宙的大事件として記す。

「神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けた(38節)とは、古いユダヤ教の神殿秩序の破壊、祭儀の終焉、律法の権威の止揚を示す。

2.イエスの最後の言葉

”「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」”(マルコ 15:33節、新共同訳)(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)

 これは詩編22編2節の冒頭の言葉でもあるが、議論の多いところだ。

① イエスが語ったのではなく、後世の受難物語の生成や伝承段階で、イエスの言葉として後で加えた。

② イエスは最後に神への絶望を述べたのだ。

③ 詩編22編は最終的には神への信頼の詩編だから、信頼の表明が途中で途切れた、一貫して神に委ねるイエスの表白の一部だ、と主として神学的な見方。

3.『イエスという経験』の大貫隆氏と『イエス – その逆説の生涯』の笠原芳光氏との往復書簡(「福音と世界」 2009.4)では、共にイエスの最後を「イエスの絶叫」と捉える点は一緒であるが、大貫さんは「神への懸命な問い」だと理解し、笠原さんは「意味不明の叫び」だと捉え、「その叫びにこそ深い慰めがある」という。

4.今日の主眼は、イエスの最後の「絶叫の叫び」の方ではなく、この最後を取り囲む人々の方に目を留めたい。

① 「本当にこの人は神の子だった」(39節)との信仰告白は、イエスの死刑を執行したローマ軍の百人隊長だということ。百人隊長は実力のある軍の指揮官。この告白は、マルコの他の二つの告白と関連している。

・イエス受洗の際の「あなたはわたしの愛する子」(1:10)
・山上の変貌の「これはわたしの愛する子」(9:7)
 この二つはマルコの「神の子」宣言。

 これを百卒長が繰り返すのがマルコの特徴(大貫)。ユダヤ人の民族主義の破綻を象徴する異邦人。そして、軍の価値観(皇帝への忠誠)を持つ軍人の告白。イエスの最後を囲む人々の強烈さがあります。

② 「婦人たちも遠くから見守っていた」(40節)。

 マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメの存在の大きさ。

”この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。”(マルコ 15:41、新共同訳)

 離れがたい心の痛み、悲嘆、関心、心遣い、興味、待機、などを象徴している。

5.イエスへの信仰告白はいろいろな人によってなされ、多様である。ユニゾンではなくコーラスである。

 パウロは「十字架につけられ給いしままなるキリスト」(ガラテヤ3:1、文語訳)が各人に示されているという。各人の告白が大事だ。

6.阪神淡路大地震で再建された兵庫松本通教会の会堂への光の取り入れ方に感動を覚えたことがある。

 上よりの光が、プリズムで白木の聖餐台にあたり、虹の光を放つ(神からのノアへの祝福を象徴)。

 イエスの十字架の死を囲む人々の告白の多様さを思わせる。

 赤外線・紫外線もある。目に見えないがイエスの死を見守る。

 すでに挫折してしまった男性の弟子たちも、イエスの死後に登場するアリマタヤのヨセフもいる。

 人はそれぞれ自分のありのままの姿で、イエスを告白・証しすればよい。

 

148_20090322

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