2008.11.30、明治学院教会(134)待降節 ①
(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん75歳)
マルコ 13:28-37
1.待降節・アドヴェントです。
クリスマスまでの4週、信仰の覚醒を喚起する暦の季節です。紀元13世紀頃に始まりました。”Advento”はラテン語で「迫り来る、近づきつつある」という意味。名詞では「到来、接近」を意味します。イエスの来臨(来ること)への心の備えをする期間として守られています。
待降節の「聖書朗読日課」はいろいろ工夫されてきました。
2.マルコ13章が待降節に読まれるのは、「いちじくの木の譬え話」があるからです。
いちじくの枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の収穫が近いことを悟ります。
イエスは季節の変化に、神の国・神の支配の到来を読み取ったのです。
「いちじくの木から教えを学びなさい」(マルコ 13:26)とあります。「学ぶ」は29節では「悟りなさい」と言い換えられています。いちじくの収穫の嬉しさの経験から、神がもたらす収穫・恵みを悟れ、ということです。相当の感性が要求されます。
3.マルコ13章には、初代の教会の大きな問題が書かれています。世の終わりが近いと大騒ぎをしていたことです。地震が起きるとか、飢饉が起きるとか、戦争が始まるとかいうことです。12節には「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」などと書かれています。マルコはそういう流言飛語に惑わされないで、しっかり自分というものを持っていなさい、と主張します。
当時「黙示文学」表現の仕方があって、いろいろな徴(しるし)の出来事に「世の終わり」を読み込むことは流行だったのです。
13章のうち、5、9、23、33、35、37節はマルコの編集句です。
ここには「気をつけて」「目を覚ませ」の句が繰り返し出て来ます。マルコの主張です。
マルコの示す生き方は、未来の事件の予告に引き摺られないで「現在をしっかり生きよ」というものです。
「(主が来られることに)目を覚ましていなさい」ということです。
今の出来事を真剣に生きて、一つ一つ決断を重ねて、あとは「近い」といわれる「主」に委ねて生きるのだ、ということです。
4.浜田寿美男『ありのままを生きる』(岩波書店 1977)。
30年前、自閉症の子どもに出会い、人生の考え方を変えます。自閉児の振る舞いが「へん」、私たちが「当たり前」と考えなくなります。治療とか訓練の危うさを知ります。
彼らの振る舞いの不思議さも、障害を持たない子どもの振る舞いも、「文化」です。
彼はUさんという親に出会い、「自閉症が治ってもらったら困る」という言葉を聞きます。初めはわからなかった。不可逆的に背負った条件のもとで、より生きやすい形を求めるのは当然ですが、それはおよそ「治る」という発想とは別のものである。
Uさんが言っているのは「この子はこの子でよい。一人の人間でそれだけでよい。その子をありのままで引き受けて、一緒に生きてゆく」と、この子の生きる形を逆説的に、しかもある意味では非常に素直に表明したものであると考えます。
治るのを待つのではないのです。
今を決断して、そのあるがままを待つのです。
「主を待つ」ことは「座して待つ」という待ち方ではなくて、「今の決断を重ねる」ということで、「その後は、来られる主にゆだねる」ということです。
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