2008.6.22、明治学院教会(118)聖霊降臨節 ⑦
(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん74歳)
マタイ 5:17-20
”あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ”(マタイによる福音書 5:20、新共同訳)
1.「義」は、聖書の中心的な概念である。
よく把握しておきたい。新共同訳聖書巻末の「用語解説」では「義は神の属性。……」と説明。『岩波キリスト教辞典』には、見出語「神の義」のみがある。
「人間の罪に直面して示される裁きとしての神の義(《分配的正義》の正当性)がキリストの十字架において遂行され、これによって罪人であるわれわれが<神の義>とされた。」
参照:
”神の恵みにより無償で義とされる”(ローマ 3:24)
”罪と何のかかわりもない方……によって神の義を得ることができた”(Ⅱコリント 5:21)
「義」は神の本質。日本基督教団 信仰告白も「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義とし給う」と、宗教改革以来の中心的な「信仰義認」の教義を明示する。
2.あなたがたの義が
ところが、今日のテキストでは「神の義」ではなくて「あなたがたの義」が問題にされる。
ここはマタイ福音書の特徴であり、大変大事な部分。
”「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」”(マタイ 25:40)
旅人や病人や飢えている人への愛を教会に求める。
”多くの人の愛が冷える”(マタイ 24:12)と、マタイは彼の時代と教会の兆候を嘆く。この教会には愛の戒めを軽んじる人がいたのだろう。
3.イエスが教えた教え
山上の説教でマタイは、「神の義を求めよ」(6:33)と締め括りつつ、その義に「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(6:12)と、行動した者の祈りを捧げる。
義に参与することを含めて恵みは貫徹される。「あなたがたの義が……まさっていなければならない」は量的契機が含意されている。「愛が冷えている」人たちに向かって「イエスが教えた教えを実践するように」と促す。
4.神の義とあなたがたの義
さて、聖書の中には二つの文書形式がある。
パウロの「ローマの信徒への手紙」のような「(神の義)教義型」の文書。
マタイ福音書のように、人間の生き方を説く「(あなたがたの義)人間型」の文書。
「牛に引かれて善光寺参り」型。
(思ってもいなかったことや他人の誘いによって、よいほうに導かれることのたとえ。引用:goo辞書)
5.人間的なるもの
なだいなだ著『神、この人間的なるもの ー 宗教をめぐる精神科医の対話』(岩波新書 2002)。この本は、なださんの友人・河野裕章医師(カトリック)が、「断酒会」(あなたがたの義)という人間的なるものの中に、宗教性(救い)を見る生き方を示唆している。
「行う」は「完成する」(マタイ 5:17)。我々の行いの一つ一つのことが、神の義に繋がり、救いを満たしていく。
”「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。”(マタイ 5:17、新共同訳)
6.わたしの心に残っているお話。
幼稚園で観た映画「鹿の救いと一匹の蟻の物語」。
▶️ 神、この人間的なるもの(2014 西宮公同・礼拝説教)


◀️ 2008年 礼拝説教